1編

SONY 神話、あるイノベ―ションの物語
 SONY Myth, It's an innovation story of media

4章
ハードとソフトの協奏のデジタルのベルが鳴る


2◇ 音楽と映画というソフト・ビジネスの饗宴へ

2.1. グローバリゼーションとトップ・マネジメントの変遷

◆ アメリカ流のビジネスで多くの師や友との出会った

ソニーは、アメリカ流のビジネスで多くの師や友と出会った。
それには、ハーベイ・シャインと盛田の出会いから始めるべきと思われる。
ソニーの成長を急いだ盛田は、ジョイント・ベンチャーのチャンスを探していた。

話しは、1966年、シャインがCBSの上級幹部として日本コロンビアを訪れたときに遡る。
戦前、CBSと日本コロンビアとのジョイント・ベンチャーの復活交渉に来た時、ハーベイ・シャインは、その交渉が遅々として進まず悩んでいた。
その時、盛田は、日本コロンビアの幹部から、シャインを紹介された。
二人は合った瞬間、真っ直ぐに目的に向かって話を進め、その2年後の1968年3月に調印でき「CBS・ソニーレコード」が設立でき発足した。

そしてまた、ソニーにとって重要な役割を果たしたソニー・アメリカの社長となったハーベイ・シャインとミッキー・シュルフォッフに着いて、紹介しておく必要があろう。
以下、[J.ネイソン著、ソニー・ドリームキッズの伝説]を参照しながら補足しながら述べてみたい。

1971年に、ミッキー・シュルフォッフは、当時CBSの社長であったハーベイ・シャインの弁護士から、CBSに来ないかと誘いを受けた。
それは、シュルフォッフが結婚して間もなくの、ジャマイカの保養地の休暇中のテニスクラブであった。翌年、シュルフォッフは、CBSレコードの副社長のアシスタントとして働き始める。この年、ハーベイ・シャインは、CBSを離れ、ソニー・アメリカの社長になっていた。

1974年、シャインは、ベータマックスの導入直前を控え、個人アシスタントを探していて、シュルフォッフに声を掛けた。
物理学を専門としていたシュルフォッフは、渡りにに船とチャンスに飛びついた。これをシャインは、盛田に「物理学の博士号を持っている男を雇った」と自慢した。

1975年、盛田は、ディクテーティング・マシンや電卓のソバックスを扱う事務機器部門の財務を含めた権限を、シュルフォッフに与えた。
それは、盛田が、それまでIBMの社外重役を、ウオークマンの前身でプレスマンというディクテーティング・マシンが、IBMのタイプライタ等の事務機器領域との、コンフリクト・オフ・インタレストの問題から辞職するタイミングでもあった。
翌1976年、ソニーのシャインとロッシーニが、スープラ・スコープとのテープの販売契約を打ち切ることに成功すると、シュルフォッフは、ソニーのサウンドテープととハイファイの担当となった。

1977年、ベータの拡販で、シャインが費用を掛けないことに腹を立てた盛田は、遂にシャインを更迭し、レイ・スタイナーを社長に据えた。
シャインは、社長就任当時から、ケチで社員に好かれては居なかった。例えば、トイレット・ペイパーを社員が使う量までコントロールして、1メートルごとにマークを付けさせたり、社員証をトイレで流した者には、新たに出す社員証代を社員に請求したりした。

ソニー・アメリカの人事担当となった和田健二が初めてハーバード大学のMBAの優秀な卒業生を誘って盛田とのインタビューに漕ぎつけたとき、盛田が喜んで、「君を、私は探していたんだ」 と、まだ入社希望も伝えないでいたジョン・オダンネルを、口説き落とすことに成功した。
そのときも、シャインは和田に対し、「この件は、ソニー本社の採用か」 と迫り、和田が本社トップの一人でもあり、人事担当の橋本と相談し、日本とアメリカで80:20で負担することを決めたのだった。

因みに、オダンネルは、ベータの ”セルビデオの新しいビジネス・カテゴリー” を確立し、その功績で、1984年にグラミー賞では史上初の5本のミュージック・ビデオのカテゴリーのノミネートを独占し、そのウイーナまで勝ち取っている。
そのビデオ・クリップというミュージック・ビデオのカテゴリーから、マイケル・ジャクソン等のスターやMTV等の全米ネットワークの専門チャンネルが生まれている。

1978年1月、田宮やシュルフォッフと東京のラインアップ・ミーティング(商品計画会議)に来日していたスターナーが、突然品川のホテルパシフィックで、亡くなった。心臓発作であった。
スタイナーは、USの東海岸のエスタブリッシュメントのシャインと違って、あたかも西部のカーボーイで、体躯も優れて大きく態度もぞんざいであった。ただ、衣装用のゲージを運んできて、そう立派でもない布生地の紳士服を会議の度着替えるのだった。

ランチにプリンスホテルから取り寄せた上品なサンドイッチ・ボックスを開き、むんずと掴むと2口か3口でペロリと平らげた。そしてそのまま、次の料理、つまりメイン・ディッシュを待っていた。
驚いた企画担当は、とっさの機転で、大崎工場の門の前にあった中華店に飛んで、ラーメンにしようかと思ったが、それよりタコの足等の海鮮や野菜が多い湯麺にした。
それを持って、秘書が届けると、スタイナーは大変喜んで食べたが、やはりスープの次にメイン・ディッシュが出るのを待っているようでもあった。
最初は、少し威丈高でもあったスタイナーではあるが、しばらくすると古武士然とした工場長の吉田進と直ぐに打ち解け、気が合う中となった。

スタイナーの葬儀が無事済んだ後、ソニー・アメリカは、急遽人事を行い、コンスーマを田宮謙次が社長として統括することとした。
また、ノンコンスーマを、角田浩一が社長になって統括した。こうして。MIPS事業本部のソニー・アメリカのマーケティング&セールスは、角田の担当となったのである。
角田のもと、ビジネスマシンには、芝浦のテープレコーダからのディクテーティングの望月や猪狩等の優秀な人材がいた。また、OA事業部から菊池三郎と堀昭一が派遣され、情報機器本部の出先であったので管理に居た小池史郎やMIPSから立花が派遣された。

そして、ソニー・アメリカに、もう一つソニー・インダストリーという産業向けの部品やコンポーネントの販売を担当する部門を新設し、それをシュルフォッフに担当させた。
そこにはOA事業部から独立した3.5インチFDDや仙台工場の部品部門の扱う磁気ヘッド等が含まれていた。

これは、ベータでの同盟の失敗が、仲間にICやドラムアッセンブリ等のキーパーツを供給しなかったことの反省に立っていたからでもあった。
ただそれは、達成目標として、スジの良いコア・プロダクツを開発するプロジェクトを興し、そのためのコア技術を研究し、コア・デバイスを開発し、その用途や用法をマーケティングするという方法論とは、全く逆の、まず売れる物なら何でもというビジネスありきの路線でもあったのである。


◆ ソニーとCBSとのミュージック・ジョイント・ベンチャー

この成長を急ぐ盛田流のジョイント・ベンチャーの話は、まず、ソニーと盛田に、アメリカのマネジメントとビジネスとは何かを、厳しく教育してくれた。
すでに述べたように、1966年、CBSの上級幹部として日本を訪れたハーベイ・シャインと盛田の二人は合った瞬間、真っ直ぐに目的に向かって話を進め、その2年後の1968年3月に調印でき「CBS・ソニーレコード」を設立し発足させた。

このとき、CBS側からは、シャインが抜擢した若い弁護士のイェトニコフが契約書をチェックした。
この時のイェトニコフもまた、シャインが後にソニー・アメリカの社長となり、またイェトニコフも、ソニーの音楽と映画への参入に大きく関与することになる。

ソニーとCBSとの交渉は、ソニー側の代表者として大賀が当り、両者は100万ドルづつを折半して出し合い資本金を200万ドルとすることで、CBS・ソニーレコードが設立された。
社長は盛田となったが、大賀がソニーを離れて副社長となり、まもなく大賀はソニーを離れ社長となった。

ちょうど、1968年と言えば、トリニトロンの開発が大詰めを迎えた時期で、プロジェクトに抵抗していた実力者達がソニー本体から続々と離れて行った。
当時ソニー・アメリカは、盛田が社長と会長を兼務していたが、トリニトロンの販売のために、家電大手のシルバニアからスタイナーを引き抜いて社長にした。スタイナーは背が高い西部のカーボーイのような男であった。

しかし、トリニトロンが峠を越し破竹の勢いで進み始めると、1971年、ソニーは大胆なトップ人事の刷新を断行した。
トリニトロンの開発から製造、そして販売からアフターサービスまで、技術陣と共に井深が新しいやり方を開発すると宣言していたが、突然の人事であった。
井深が志半ばで会長となって実線から離れ、盛田が社長となり、岩間が副社長となった。
井深の会長という人事には、多くのエンジニアのが違和感を持った。はたして、その後の大きなイノベーション・プロジェクトの目標設定は誰がするのだろうかと。

しかし、アメリカのドル崩壊による経済状況は厳しく、アメリカのサンディエゴにトリニトロンの生産工場を翌年に控え、岩間がソニー・アメリカの社長となった。
岩間は、何時かソニーの社長になると社員のみんなが想定しており、そのためには、当然であると受け止めれれてはいた。
岩間は、2年間アメリカに居て1973年に帰国するまでその間、ソニー・アメリカの社長と会長を務めた。

クロマトロンのセットの開発を担当していた鹿井も本社を離れ、新しく子会社となっていたアイワの社長となっていた。
こうしたメンバーは、やがて大賀が本社に復帰すると、芝浦工場から岩城が大賀の右腕となり、鹿井も復帰し、逆に大崎工場から、吉田や加藤、そして宮岡や森尾等が本社や開発部に異動となった。そして、逆に、大崎のビジネスセンターには、盛田正明や河野文男等が異動となった。

この1971年から1972年まで、岩間がソニー・アメリカの社長となっていた時期の最後に、シャインは、ソニー・アメリカの社長に就任する。
盛田とユダヤ人のシャインは、共に節約家としても、息が合っていた。これが、ソニーがやがて1988年のCBSレコード、1989年のコロンビア・ピクチャーズの買収へとつながっていく最初のステップとなった。

シャインが社長になる契約条件は、シャインがソニーの株を買うために110万ドルをソニーが融資し、年俸$135,000というソニーでトップの報酬で、かつ年間の仕事は40時間のみというものだった。そして10月に社長並びにCEOという仕事に着いた。

それまで、ソニー・アメリカ本社は、クイーンズ地区の韓国街とイタリア人街の中にあったバンダム通りの倉庫と兼用の古いくすんだ2階建てのビルに居たが、マンハッタンの高層ビルに引っ越した。
それは、やがてソニー社員達が ”ナイン・ウエスト” と親しみと誇りを込めて呼んだWEST 57丁目の凹面型に立ちあがっていて、見上げると眼もくらむような新築のエイボンビルの42階と43階であった。
エレベータを降り、そのロビーに足を踏み入れると、その北側の正面には床まで広がった大きな窓ガラスから、見はるかすように広がるセントラルパークがすぐ足元にまで広がって来ているのだった。

シャインは、社員がソニーの金をくすねるのではないかと危惧し厳しく管理していたため、社員からの受けは必ずしも良くなかった。それも彼が手にしていた退職時にもらう株のオプションが目減りすることを気にしていたからであった。
彼は、社長となっていたスタイナーと組んで、ソニーの映像機器事業部の部長であった吉田進常務ともサンディアゴへの部品の引き渡し価格の駆け引きをしていた。
しかし、将軍とも元帥とも言われた吉田がスタイナーを手なづけるまでには1年とからなかった。

しかし、1975年にベータマックスがアメリカでリリースされると盛田とシャインとの対立が激しくなった。
盛田が、ベータの広告宣伝費を増やすように要求してもなかなか増やさなかったのである。東京から電話で、盛田が怒鳴るように命令すると多少は増やしはしたが、それはトリニトロンやオーディオの宣伝費を削ったものだった。

また、ハリウッドからのベータに対する訴訟は、アメリカの国民的話題となり、広告費に勝るプロモーションとなっているので、製品の能力で競えば良いと考えていた節もあった。当時まさに、”タイムシフト”のコンセプト・セリングを、メデァアも議会も巻きこんだ国民の関心事となっていたからでもある。

ソニーは、DDBという広告代理店を使って、
「いま、コロンボを見ているからといって、コジャックを諦めることはありません。ベータマックスがある」
というコマーシャルも打ったのであった。

これは、MCA/ユニバーサルの映画スタジオのシャインバーグにとっては、ヒトの資産をかすめ取るフリー・ライダによる著作権侵害そのものと受け止められた。
1976年11月ディズニーを巻き込んで、ソニーとDDBを提訴したのである。


◆ 音楽コンテンツ流通におけるビジネス・イノベーション

大賀は、CBSソニーで、コンテンツ流通におけるビジネス・イノベーションを興した。
その一つが、小売商からの返品制度の改革であった。これは書籍で委託販売として行われていた制度に対してである。
大賀は、何%かは買い取りにすると少し譲歩はしたが、日本レコード商業組合から商習慣に反すると、不買運動が興された。

しかしちょうど突然、”サイモン&ガーファンクル”の”サウンド・オブ・サイレンス”がヒットすると、流れが変わった。
こうして、設立2年後には、二つの親会社が出資した額に相当する配当を実現したのである。
また、レコードのプレス工場を日本の中心地である静岡県の富士の麓に造り、全国への鮮度の高いレコードの配送体制を整えた。

この時代、アメリカでは、カウンタ・カルチャーの流れがフォークソング等のポピュラーソングを生み出し、カラーテレビで流されるようになって、次々に新鮮な歌手が現れた。
大賀のCBSソニーの戦略は、そうしたポピュラーソングのテレビが後押しできる天地真理や山口百恵、キャンデーズ等の歌手を育ててビジネスとして成長させて行くことであった。
こうしたビジネスモデルのイノベ―ションは、そのまま、プレイ・ステーションへと引き継がれて行ったのである。

ただ、CBSソニーが蓄えた内部留保が溜まってくると、大賀は盛田と同じような資本の圧力に苦しむようになった。
その投資先探しである。毎月本社の7階の講堂で開かれる部課長からなる2000人位の会同で、彼が副社長として登壇し、”カリフォルニアのレモン畑を買って輸入したい”と話したとき、それは面白い冗談だね、と会場からは受け止められた。

同じころ、財務部長が香港に40億円の金があるが、これを日本に持ち込むと半分近く税金が採られるので、塩漬けにしてバランスシートを守るという戦略を練っている等の手柄話しをしたことがあった。
これにも、技術者達は、何かソニーのトップの考え方が技術開発志向からずれ始めたような感覚を覚えた。いったいソニーは、何をもって社会に提供し貢献する会社なのか、これからどこへ向かおうとしているか、些かの不安が広がっていった。




2.2.  ソニー・アメリカのトップ交代と音楽ビジネス参入

◆ 次々に交代したソニー・アメリカのトップ・マネジメント

大賀時代のトップ・マネジメントの一人としてソニー・アメリカに君臨したミッキー・シュルホッフは、音楽や映画産業のコンテンツ産業の買収に繋がって行くピボタル・ストーンとなったのである。

そのころ、ハーベイ・シャインの時代の、ソニー・アメリカは、混沌としていた。
ソニーがベータをアメリカに持ち込む準備をしていた頃、ラゴアやソニー・アメリカの草創期からの立上に喰わっていた卯ノ木等が揃って、月に200から300台位しか売れないと、ベータの市場導入に反対の狼煙を挙げていた時期である。

しかし、この件で驚いた岩間が頼りにしていた大崎の加藤善朗の機転で、彼らの本音を出させることに成功し切り抜けることができた。
それは、シャイン流の予算とその達成目標との数値の差で責任を追及するという言わばディクテータが持つ官僚的な制度に起因するもので、もっと長期的な視点から見た合理的なマネジメントを行うために、岩間が渡米し社長になったのでもあった。
1976年、ベータが導入され、最初は加藤の作ったマスタープランの如くに当初は成功裏に推移していたが、失った1年半という時間は、敵に与えたなハンデキャップは余りにも大き過ぎた。

そして、1978年1月、東京のラインアップミーティングに出席していたソニー・アメリカの社長のスタイナーが、突然、心臓発作で亡くなった。また、その翌月、盛田のアメリカでの長年の師でもあり友でもあったロッシーニもに亡くなった。

シャインがアメリカ流の自己の利益中心の厳しいビジネススタイルの師でもあったが、ロシーニは、自由な挑戦と自己責任さえ覚悟すれば、あとは法律論で対応するというアメリカ流のビジネスの師でもあり、共に戦った友でもあった。

そして、遂に、ハーベイ・シャインもまた職を探している時期でもあった。そうしたいわば、ソニー・アメリカのトップ・マネジメントの空白となる時にスマートなミッキー・シュルフォッフが颯爽と登場したのである。

盛田は、ソニー・アメリカの営業を3つに分けることにした。
コンスーマ用を田宮謙次に、業務用とプロフェッショナル向けを角田浩一に担当させた。

盛田は、ベータの同盟軍の失敗に懲りて、岩間が育てたキー・デバイスをソニーが最終製品にして先行者利潤を求めるだけでなく、現在のビジネスをとしてエンジョイするためのコンポーネントとして外販し、ビジネスとする道を選んだ。
そして、新たにミッキー・シュルフォッフに、OEM向けのトリニトロンやベータマックスや3.5インチや磁気ヘッド等のキー・デバイスの営業を任せることにした。

これは、岩間の育てたコア技術やそのコア・デバイスを、自社に限らず他社ブランドでも売れるB2Bというビジネス領域の縛りを解放するという技術戦略の大きな転換でもあった。
そして、シュルフォッフは、ケビン・フィンという男をTRW社から雇った。彼が、3.5インチをHPやアップルへ売り込んだのである。

1983年大賀は、アメリカにCDの工場を作ろうとしてCBSソニーの社内留保金から3500万ドルを投資するため、CBSの説得にシュルフォッフを任命し、一切を任せた。
当時CBSのCBSレコードはイェトニコフが社長で、CDの標準規格を受け入れることにずーと反対していた。
シュルフォフは、ソニーがインデアナ州のテレフォートにあるCBSビルを買い取り、それをCD工場に改造する案を、CBS社長のトマス・ワトソンに直接説明し、説得に成功した。
シュルフォッフは、その工場の建設に没頭し、成功した。


◆ CBSレコードの買収で世界の音楽ビジネスへ

1986年になると、シュルフォッフは、ソニーの中で上昇気流に乗った。この時季、シュルフォッフは、ウオルター・イェトニコフと共に、ソニーのCBSレコードの買収計画の主役の一人となって乗り出したのである。
また、イェトニコフは、1986年CBSレコードの経営権をがっちり握り、マイケル・ジャクソン、ブルースプリング・スティーン、バーブラ・ストライサンド等の花形スターとも個人的な関係を保っていた。
ところが、その年の夏に、突然、CBSの支配権は、ローレンス・ティッシュの手に渡ったのである。ただ、彼は、金になるなからなんでも売ると、まさにイェトニコフが理解していた通りの男でもあった。

しかし、この二人は同じユダヤ人ではあったが、仲が良くなかった。
イェトニコフは、突然、テッシュがCBSレコードをある製薬会社に売り渡すという計画を外部から聞いてびっくりし、テッシュに詰め寄ると、テッシュは、現金で12億5000万ドル用意できるならお前にでも売ると宣言した。

イェトニコフは、電話をかけまくったが、CBSソニーの分を除いた落ち目のCBSレコードを買おうとするものは見つからなかった。
 イェトニコフは、シュルフォッフから大賀と盛田に打診した。盛田等はすぐ反応し、投資銀行を探すように命じた。
シュルフォッフはロシーニの後に座ったポール・ビューラックと、友人であったブラックストーンGp.の ピータ・ピーターソンのパートナーであるステーブ・ビューラックと翌早朝イェトニコフのホテルを訊ね、ミーティングを持った。
シュルフォッフは、「経営陣や大切な音楽関係者を失わずに、会社を引き渡すことができるか」 とイェトニコフに訊ねた。彼は、そのためには、彼自身と仲間達のために、4000万ドルのボーナスが必要と主張した。

イェトニコフは、ティッシュに電話して、売値が12億5000万ドルであることを確認し、ソニーが正式に名乗りを上げたことを告げた。
ところがティッシュは、重役たちにCBSレコードの売却に対し、反対の意向があることが判ったという事実を、イェトニコフに告げた。それは、CBSのペイリーがCBSソニーを含めたレコード部門を売ることに断固反対で、役員達を説き伏せたからであることであった。

ただ、ティッシュは、それでも売ることを諦めず、公募等の模索を始めた。そしてディズニーが触手を伸ばしてきたこと、そして資本取得税が値上がりしたため、今なら20億ドルだと言った。
わずか9ケ月の間に、60%も値上げされたことになったのである。

しかし、ソニーは、怯まなかった。ソニーとフィリプスが1982年に開発したCDは、その2年後の1984年にレコードに比べ1/10の枚数であったが、その年発売した小型のD-50が価格を1/3にしたこともあり、急速に成長を始めた。
まさに、ハードがソフトのバウンダリー・シェルの天井を押し上げ始めたのである。

また、ちょうど、1987年、DAT:デジタル・オーディオ・テープとそのプレーヤを発表しようとしていた。つまり、これも消費者が持っていたデジタル化のコンセプトの限界であった音質に関するバウンダリー・シェルの空間をさらに押し広げようとする動きであった。

1986年には、CDの売上は、4,500万枚に昇りレコードを抜き、この1988年には、CDの生産は、年間1億枚に伸びようとしていた。
そして今度は、CDシステムのビジネスのバウンダリー・シェルの上限をそのソフトコンテンツが押し広げつつあった。
こうしたハードとソフトのニワトリと玉子の関係は、お互いに制約条件ともなり、また相互に支え合い刺激し合う、いわばバウンダリー条件の交互に作用し合い進化する生態系が実現することになったのである。
加えて、ソニーは、ベータ・フォーマットのハードの敗北による反省の念が強かったが、CDがようやくそのリベンジを果たしつつあったのである。

また、1985年、日米のコンスーマ用ハードを起点とした技術覇権戦争は、プラザ合意で決着した。
日本は、半導体の自主規制で自ら刃を降ろし、1ドルは360円から当時3倍の価値に駆け昇っていった。
そして、1987年10月19日ブラックマンデーが訪れ、ウオール街は、大暴落に見舞われた。
しかし、テッシュは、譲らないばかりか、CBSソニーの年金積立金の全ての4,000万ドルすらも要求した。

そして、ようやく1988年2月、両者はニューヨークで午后7時、東京で朝9時に役員会を開き、同時に決定を承認し、契約された。
CBSの役員会には、シェルフォッフが、盛田会長からのファックスによる代理人であるとする委任状が届けられた。

イェトニコフは、大切なタレントをソニーに首尾よく引き渡すことに成功した。
こうして、ソニー・ミュージック・エンターテインメント社が発足し、彼はその社長に任命された。
シュルフォッフは、オペレーション担当の執行役員副社長として正式にソニー・アメリカの副社長に任命された。

それは、ハーベイ・シャインから、レイ・スタイナー、そしてミッキー・シュルフォッフへと、目まぐるしく変わった後、一時の安定ポイントでもあったとは言えよう。




2.3 ソニーが目指した映画ビジネスへの挑戦

1988年CBSレコードの買収が成功すると、翌年の1989年9月、ソニーは、40億ドルで、コロンビア映画を買収すると発表した。その内訳には、コロンビアが抱えていた16億ドルの借金分が含まれていた。

コロンビアに辿り着くまでには、盛田が考えたMGMフィルムは、フィルム・ライブラリの大半をテッド・ターナに売ってしまっていた。
テッド・ターナは、ニュースの全米ケーブル・ネットワークチャンネルのCNNを創設し、後にタイムワーナと合併しAOLとも合併させたことで知られている野心家でもあった。

残ったスタジオの大手は、コロンビアだけで、2,700本の映画作品を保持していた。例えばエリア・カザンの「波止場」や、「ある夜の出来事」、「アラビアのローレンス」、「戦場にかける橋」、「ここより永遠に」、「ケイン号の反乱」、「ゴーストバスターズ」、「未知との遭遇」等であった。
オスカー賞も12本持ってはいたが、ハリウッドでは決してトップのスタジオとは言えなかった。

対価となる資産の中には、コロンビア・ピクチャーズと、コロンビアピクチャーズ・テレビジョン、トライスター・フィルムズ、それに全国180か所に820面のスクリーンを持ったローズ・シアター・チェーンが含まれていた。つまり、映画とテレビの3の制作スタジオ、そのコンテンツ・ライブラリと、流通チャンネルが含まれていた。

テレビ番組では、260本のシリーズ番組、23,000本の作品を制作していた。その中には、いわゆるホームドラマや日本で昼メロと言われたソープオペラなどがあった。
また、全米に配信されたゲーム番組のジオパディやウイール・オブ・ホーチュンなどがあった。この定期的に安定したキャッシュを流し込んでくれる能力には、大きな価値があった。
ただ、こうしたライブラリや、まさに今製作中の価値や、それらの能力の価値をどのように評価いたら良いかについては、ソニーは、全く理解できていなかった。それは、まさにスタジオのマネジメントが生み出すことができる潜在的な資産価値だったからである。

買収価格の算定は、イェトニコフが紹介したマイケル・オーヴィッツに委託された。オーヴィッツは、数字を紡ぎ出し、それをブラックストーンに渡した。ブラック・ストーンは、高中低の3種のモデルに投入してシミュレーションした。その結果は、ソニーの戦略スタッフチームに渡された。
ソニーは、投下資本が負債を含め、何年で回収できるかをキャッシュ・フローのコンバージェンス期間で評価した。

株価は年初12ドル、当時21ドルではあったが、ソニーは27ドル支払うことに同意した。
このため、時価総額は上昇し、株主達は有頂天になったと伝えられる。

だが、ソニーがそこに創造的な価値を生み出すマネジメント・イノベ―ションを興せなければ、ソニーのブランドを毀損することになる。
当然、イェトニコフは、スタジオをマネジメントしたいと思っていたが、大賀にしても、イェトニコフにしても、自信があるとは言えなかった。そして大賀はまた、持病の心臓に不安を抱えていた。
それを補う人材として、マイケル・オービツに人材の紹介を依頼した。
彼は、ハリウッドのプロデューサや監督や俳優達と深いつながりを持っていた。だが、オービッツが出した条件は、映画スタジオのトップに立つだけでなく、莫大な報酬に加え、ソニー本社のボードにも加わるというものだったと言われる。ソニーは、これを断る外なかった。

しかし、ソニーには、このビジネスに付いて、マネジメントする経験が全く無く、また、その人材の確保と、そのガバナンスの機構を如何に構築するかが、最大の問題となった。
事実、それまで、コカ・コーラ等が買収して運営していたが、全く、生彩を欠いていたからでもある。
そしてそれもまた、オービツに頼る以外に無かった。オービッツが出したアイデアは、ピータ・グーバとジョン・ピータであった。

ソニーは、ピータ・グーバとジョン・ピータズにスタジオを経営させるため、2人が創設し上場していたグーパー・ピータズ・エンターテインメント・カンパニー:GPECを2億ドルで買収するつもりであると発表した。
これは、2人が考え出した素晴らしいアイデアであった。

しかし、ワーナは、彼らと6年間の拘束する契約があり、その権利を行使すべく訴訟を起こした。結果、この買収に関わる投資は、60億ドルに上ったと推側されたのである。

一方、こうしたソニーの行動は、アメリカ人の大事な資産を日本が買い占めるということに対し、また、ジョン・ピータとピータ・グーバ―へのジェラシーと共に、ソニーへの反感が広がっていった。
それに対し、ソニーは、いわば黙秘権を行使することに徹した。それは、いわゆるクラスアクションという株主からの集団訴訟を怖れたからでもあるし、それに対抗する買収額を産出した根拠を示すことができなかったからでもあった。

もちろん、ROIのシミュレーショは、社内の小さなシンクタンクが大雑把なEBITDAに基づくキャッシュ・フローで計算をやってはいたにしても、その前提条件やメカニズムはあまりにも複雑で仮定が多過ぎた。
例えば、テレビのシンジケーション市場におけるライブラリーやソープオペラの価値は、いわば広告枠を売るためのコンベアの役割を持つもので、そのコンテンツのライフ・ヴァリューの評価はアメリカ人のメデイァに関する価値観調査データが少し頼りになるだけのもので、モノ作りのビジネスに比べ、映画ビジネスは、複雑に過ぎまた不確実であった。




2.4 ソニーの映画ビジネスというプロデユーサ達の挑戦


◆ 一体だった二人のプロデューサには企業までついていた

映画の制作は、あるシナリオやプロットを基にイメージに形を与えるため、多くの才能が参加して作り上げる連続するイメージ映像のデザインのプロデュース作業であると言えよう。
映画の制作産業の基盤となるスタジオの買収には、そこに関わるタレント達とのネットワークが維持できたととしても、それをまとめ、継続して夢あふれる制作をし続けることができるかどうかは、いわば、優れたプロデューサ―や関係者をマネジメントできるような人材の確保やその方法論が必要であった。
以下は、ジョン・ネイサンソン著作の「ソニー・ドリームキッズの伝説」や「ソニーにNOと言わせなかった男達」によるところが多いが、そのいわば自然とも思われるドラマを辿ってみよう。

そこで、ソニーは再び、イェトニコフに頼るしか他に途がなかった。ただ彼は、当時医者の命令で、麻薬中毒から抜け出すために入院してリハビリ中であった。
1988年9月に退院したイェトニコフは、カルフォルニアに在住する古い友人のプロデューサ―のピータ・グーバを思い出し、ニューヨークで会いたいと電話した。
ピータ・グーバは、1980年フィリプス傘下のポリグラムからの資金でジョン・ピータとビジネスを始めていた。グーバが38歳でジョン・ピータは3つ年上のグーバを兄のように慕っていた。
二人は、直ぐに 「狼男アメリカン」 を制作したが赤字で終わった。翌年ワーナ・ブラザーズの 「バットマン」 で成功し映画界への足掛かりを得た。そしてスチーブン・スピルバーグの 「カラーパープル」、「フラッシュ・ダンス」、「イーストウィックの魔女たち」 をプロデュースした。

イェトニコフが電話をした頃、二人はまだ、前年に制作した「レインマン」 が、最優秀映画賞に選ばれ、アカデミー賞を獲得した余韻に浸っていた。
会社の資産としては、ワーナ・ブラザーズと良い条件の5年間の拘束契約があった。

グーバは、シラキュース大学の文学士とニューヨーク大学の法学士の資格を持っていた。コロンビアで業務管理の仕事につき、5年間で全世界の制作担当の副社長となったが、3年後に会社を離れ自分でプロデュースする仕事についた。
1977年にジャクリーン・ビセットを起用し 「ザ・ディープ」 を制作した。また、ニールボガードとパートナーを組んで 「ミッドナイト・エキスプレス」 を制作した。

一方のジョン・ピータは、高校を卒業すると酒場の用心棒をやりながら美容師の訓練を受け、女性が髪形を彼にカットしてもらいたがることを見つけ、ビバリー・ヒルズに美容室を構えるところまで行った。そして遂にバーバラ・ストライザンドを優良顧客とし、やがてつき合うようになり、彼女はジョンをプロデューサに仕立て直した。
バーブラは、ワーナ・ブラザーズのスタジオのジョン・コーリに、自分が 「スター誕生」 の主役になるから、監督をジョン・ピータにさせたいと主張した。実際は監督もシナリオもジョンとはほぼ関係なく進められ、売上は9,000万ドルを売上成功して、彼はその一歩を踏み出した。
そしてコロンビアで、フェイ・ダナウェイ主演の 「アイズ」 をプロデュースした。その時既にピータは、コロンビアから独立し自分のオフィスをワーナ・ブラザーズの直ぐ隣に構えていたが、二人は知り合いパートナーとなって会社を造り上場した。

イェトニコフは、ジョン・ピータを通じて、グーパと懇意になった。ジョン・ピータは、プロデューサとして修業しながらバーブラ・ストライザンドのマネージャもやっていた。イェトニコフは、バーブラと彼女のCBSとの新規契約でジョンと交渉をしたことがあったのである。

イェトニコフは、グーパだけをソニーに引張り出したいと思っていたが、ジョン・ピータは、二人は一体であると主張した。
懸念を持ちつつ、シュルフォッフとグーパを、ナイン・ウエストの47階で合せた。
グーパは、ソニー製品のデザインが好きで、心を動かされていたが、コロンビアのビジネスは混乱の最中でもあり、まるでピカピカに磨き上げられたガタの来た中古車のようなものである、と思っていた。またワーナとの契約の縛りが引っ掛って迷っていたらしい。

シュルフォッフは、ソニーは長期契約を考えているとして、彼にシンパシーを感じたようである。
半日のインタビューで、グーパは、「確かなことは何も言えない」と繰り返したようであるが、彼がそうした言葉を繰り返せ繰り返すほど、シュルフォッフは、懸命になった。
そして、その条件は、グーパとジョン・ピータの企業を含めてソニーが買収することであることが明確になった。

翌日、ピータ・ピータソンもインタビューしたが、ちょうど盛田がカリフォルニアのペブルビーチでゴルフをしていたところから、グーパは直ぐに来るよう誘われインタビューを受けた。
そこで盛田は彼のカリフォルニアでの生活や家族のこと、ゴルフや無線ラジオ、電子画像システム等、1時間ほど盛田夫妻とお喋りを楽しんだ。
別れ際に、盛田から、東京で大賀と合うようにアドバイスされた。しかし、グーパは、まだ決心がっつかなかった。

そして、東京で大賀と対面した。高輪プリンスホテル9階の天ぷらやでのディナの話題は、映画作りだった。
映画の魂は音楽だと、グーパは言い、映画音楽で有名なジョン・ウイリアムやオペラ歌手のパバロッティと仕事をした経験を語った。
グーパは、自分の映画に対する感性をポッター・スチュワートの猥芸の定義に擬えた。つまり、映画を偉大にするものはがなんであるかは定義できないが、傑作は見ればすぐわかると説明した。
「ここ」 と頭をとんと叩き、「ここです」 と手を心臓においた。
大賀がグーバに惚れ込んだのは、映画作りに寄せる情熱を、芸術家としての彼の感性と響き合うものがあったのであろうとネイサンソンは書いている。

翌朝グーパがソニー本社を訪れると、大賀が出迎えた。グーパがソニー製品の設計のプロセスを観たい言い、デザインセンターに案内された。その中には、渡辺英夫が作ったワークショップがあった。
意匠デザイナが書いたデンダルやスケッチを、直ぐにプラスティックや木片を切削し、組立て塗装し、プロトタイピングするワークショップ・ファクトリであった。
これを、黒木や渡辺や技術標準センターの諏訪等20~30人が出席自由闊達に議論するデザイン審議会に掛けるのである。

プレゼンタは、担当した工業デザイナで、ウオークマンなら、彼が、そこに籠って、そのユーザに成りきってデザインしたものを手にプレゼンをした。
その彼の仕事場であるコーナには、彼が聴きたい歌手のポスターやアルバムのカバーやプロマイド等で埋められ、ジーパンにスニーカで毎日を過ごし、そのままのスタイルでのプレゼンであった。

こうして、二人は、満足し、大賀は、「これは面白くなります。我々は、しっかり検討しなくてはなりません」 といって別れた。
その週末、シュルフォッフは、ロンビア・ピクチャーズの代理人の弁護士に電話を掛け、ソニーはコの1株27ドルで正式に入札する用意ができたと伝えた、
前回の提示額よりも10~12ドルの値上げ額であった。株主達は、これで、数百万ドルを儲けることになった。

さらに一方のピータ・グーバとジョン・ピータの会社の買収も急速に進んでいた。
会議は、資産公開で始まり、向う3年間の 「バットマン」 や、「レインマン」 のロイアルティの見積が5,000万ドル、と1990年の収入が1,500万ドルあると見積もられた。さらに今制作中の 「続バットマン」 の収入も勘定に入れるべきであろう。
その企業の株は11ドルで取引されていたが、彼らは22.5ドルを主張した。また、彼らは5年後に使えるボーナスとして、5,000万ドル要求した。

その年彼らの会社は、赤字となり12ドルで取引されていたが、ソニーは17.5ドルを提示し、買収額は19,300万ドルとなり、その他に3,000万ドルの借入金があった。
二人は、株の13.8%を保有していたので、それぞれまず、 2、650万ドルずつを手にしたのである。加えて、2人は、コロンビアとピータ・グーパ&ジョン・ピータズの連結会計の利益が2億ドルを超える分の2.5%から始まって、4億ドルを超えると10%にも上る歩合を受け取ることになっていた。そして、5年ごのスタジオの評価額の8.08%を受け取ることにもなっていた。

この当時、大賀は、やや弱気になっており、逆に、岩城は、優秀な法務部門の支援を受けて強気になっていった。
盛田は、やはり、積極的な性格から、このチャンスを逃がしたくないと思っていた。
とはいえ、当時の経営会議がゴーの決定をしたものの、やはりボトルネックは、スタジオの経営者問題であった。

1989年8月ソニーの経営会議で、映画産業への参入とコロンビアの買収の件が議論された。9月24日の週末ソニーの取締役会は、34億ドルでコロンビア・ピクチャーズを買収し、また企業が持っていた借金16億ドルの肩代わりを含め40億ドルを決定した。
翌25日夜コロンビアは取締役会を開き、発表し27日再度開いた取締役会で承認した。

【図4.5】
OutlineShape1
1989年9月27日、ソニーがアメリカの大手映画会社コロンビア・ピクチャーズ社を買収することで基本合意に達した、と発表した。盛田会長(中央)と岩城副社長(左側)。

翌28日、ソニーはグーパ・ピータズ・エンターテインメントを2億ドルで買収すると発表した。
ソニーは、ニュ-ヨーク三井銀行等日本の5つの銀行から35億ドルの融資を受けた。


◆ 行く手にタイムワーナが立ちはだかった

ところが、その10月4日、ソニーは、タイムワーナから賠償請求を受ける羽目になった。それはまさにワーナのスチーブン・ロスからのあらゆることを口実にした怒りをむき出しにしたものであった。
ワーナは、10億ドルの賠償をもとめ、提訴したのである。

ソニー陣営は、ずたずたに引き裂かれた。その夜、ワーナの敵意を知って、グーパ・ピーターズ社とソニーは、会議を開いた。
グーパ・ピーターズ社の弁護士のアラン・レビンとクリステンセン、投資銀行のブラックストーンのピーターソンとシュワルツマン、そしてポールビューラックとスカデン・アーブス法律事務所の弁護士達、それに、イェトニコフとシュルフォッフも加わり、ソニー本社からは。盛田を支える4賢人の一人、テッド真崎が参加した。
それぞれが、自らの組織の利益を代表し、または、自らの利益を守るため、怒号が飛び交い激論が丸1日ついややされた。

ソニー本社からの真崎が取り持ちをするべきところ、とにかくソニー本体がクラスアクションの株主訴訟になる種を取りこぼすことが無いようにするだけで精一杯であった。
その中で、何とか話が総崩れにならないように頑張ったのは、イェトニコフただ一人であった。
徹底して闘うということで意見が何とかまとまった。そして、
ソニーは原告を合併妨害として逆提訴をすることになった。

これは、アメリカ人が感じていた反日感情に火を点けた。
この火に油を注いだのが、1989年、盛田が石原慎太郎と書いた 「Noと言える日本」 の海賊版であった、とネイソンサンは書いている。
急遽、盛田が東京で外国人記者と晩餐を共にした。その翌朝のニューヨークタイムスは、「コロンビアの買収が決してアメリカ人の利益に逆らうものではないことを受け合う唯一の方法は、”純粋にアメリカの会社として” 事業を展開すると約束した」 と報じた。

こうした発表にも関わらず、アメリカでこの本が出版されるにおよび、この本は好戦的に反アメリカを唱えた 「最高のアメリカ叩き」 だとされ、事態を悪化させた。
同年9月国防省が部分的な海賊版を流し、それが連邦議会に取り上げられることとなって、日本人の背信行為と新聞に掲載された。
ワーナとの訴訟の詢問は11月と定められていたが、ソニーは既に、争うことができなかった。

ソニーがスタジオの買収に支払った50億ドルと、ピータ・グーパ―とジョン・ピータに2億ドル払っていたが、さらに無条件降伏の形でタイムワーナに和解金を支払うことになった。10月末、大賀とシュルフォッフは、ワーナを訊ね、和解書にサインをした。
ソニーは、ワーナに、ハリウッドの一等地のバーバンクを手放し替え地としてカルバー・シティを受けれ、さらにコロンビアのフィルム・ライブラリのケーブルへの放送権の一部およびソニー・ミュージック・レコードクラブの50%の株を差し出したが、これは5億ドル相当と言われ、その他もろもろ8億ドルと見積もられている。
そしてこの責任はイェトニコフが償うことになり、そこをシュルフォッフが埋めることになった。


◆ ハリウッドにインフレの波が襲った

これにて一件落着とはならなかった。
ハリウッドは、ソニーとジョンとグーパは、これまで最も魅力的な取引を結び、業界の歴史上最高金額の取引を成立させ、自分達を開放するために、5億ドル以上を使わせたと持ちきりとなった。
そして、映画業界の中で、その信じられないような出来事は、急速にねたみへと変わっていった。
ソニーの買収劇は、ハリウッドにインフレを誘発し、それは重役にとどまらず、俳優、監督、エージェントにまで広がっていった。
自分達こそハリウッドの一流のマネージャであるということを証明するかのように、ピータ・グーバとジョン・ピータの自己演出競争が開始されたのである。

ワーナとの騒動が決着した2週間後、ジョン・ピータは、新しいコロンビアの本拠となるカルバー・シティのMGMの施設を取り壊して、緑化し、贅沢なハイテク行楽地に模様替えしようと構想しそのプロジェクトをプロデュース始めた。また、格式あるアービン・ターバンビルとツインとなるアールデコのビルを建設すると発表した。

2人は会長の役割を、ジョン・ピータがコロンビアを、グーパがトライスターを分担することにした。これによりコロンビアのトップであったスチールは、脅迫同様に追い出され、トライスターの社長も、すでに次の職を得ていた。そしてその後釜を探す必要に迫間られた。
彼らは、年間10~20本の映画を製作するためのパイプラインに仕込むためのプロジェクトを次々に立ち上げる必要があった。
元のスタジオの前の所有者のコカ・コーラにとっては、映画は副業で、安定したビジネスとして言えず、見かけだけが華やかなショービジネスは、実体よりも売買対象とするように考えて行ったので、パイプラインには、めぼしい作品がほとんどなかったからでもある。

しかし、役割が明確になって、2人はライバル関係となった。そして二人は、彼らのオフィスの内装のグレードアップに夢中になった。
このため二人が以前から使っていたガバナーが、本物の日本的オフィスを、コロンビアのスタジオ・プラザビルの最上階に造るために雇われた。日本から左官を呼んで本物の土壁を塗った。
グーパから 「もし本物の日本的デザインでなかったら、盛田とここで会議ができない」 と言われ、一生懸命だった。
まず、グーパの部屋の壁は杉の木でフレームが作られ、土壁を塗るつもりであったが、湿度の関係で上手く行かず、あきらめた。

これとは別に、彼らは、個人的な建設プロジェクトにも、熱心に取り組んだ。そして、彼らはその工事現場から電話で仕事をした。
まず、スクリプトを金に任せて買い集め始めた。
例えば 「スリラー」 を75万ドル、飛行機事故の物語を30万ドル、ダイアモンドの強奪事件のセクシー・スリラーを40万ドルなど次々買いあさり、ばか騒ぎを演じたが、そのどれも映画にはならなかった。

買収から3ヵ月経って、2人は、ビジネスを進めるため、会長を選任する必要を感じ始めた。
しかし、2人は、またしてもマイケル・オービッツに頼るしかなかった。二人はビバリー・ヒルズに、オービッツを訊ね、多くのリストの中から、トライスターのCEOにメタボイを候補とした。
オービッツは、多くのタレントのエージェントで、彼の機嫌を損ねたら、スタジオの経営は崩壊する他なかった人物であった。また、オービッツは、コロンビアのCEOにフランク・プライスを決めたのだった。

そして、2人は、ソニーを説得し、ファルコン900のジェット機を買い、スター達に使わせ始めた。

1990年8月、ソニーの15年間の長期計画が、サウンドステージ30で、300人のカルバー・シティの市役員や住民に対し発表された。
開発計画は、110万フィート平方の新オフィスビルと制作施設を造るために19棟のビルを建設する。その中には11階建のビルが2棟、9階建てのビルが2棟、そして何棟もの6階建てのビルが計画されており、その全てがアールデコ調で建設されるというものであった。

また、スターや著名な映画制作者たちがスタジオを訪れた時のためVIP専用のドライブレーンが設置された。
地下駐車場の上には、ミニ・テーマパークが建設されることになっており、その中心には、翌1991年にスピルバーグが作ろうとしていた 「フック」の海賊船がインスタレーションされるとしていた。

グーバも、この敷地内のどこでも撮影ができるように考え、施設内の売店は、西部開拓時代のサルーンの雰囲気を持つものとし、ヘルスクラブやスパ等も提案に含まれていた。

だが、カルバー・シテイは、伝統的な建物の保存を含め厳しい開発規制条例を持っており、第1段は承認されたが、その後は、見送られることになった。

イェトニコフは、内外の敵に囲まれていた。外部の敵は、CBSレコードの最大のスターであるブルース・スプリングスティーンやマイケル・ジャクソンと仲が良かったデビッド・ゲッフィンであった。
ゲッフィンは、自分のレーベルを5億ドルでMCAレコードに売却していたが、イェトニコフとは長年の喧嘩相手であった。彼は、この二人のスターのマネジャ達と中よくなり、イェトニコフから離れ、ゲッフィンと組むことに成功した。

これには、当時、出版された 「ヒットマン」 という音楽産業の内輪を暴露するベストセラーがその発端であった。
そして、内部でも、イェトニコフが最も信用していた部下のモットーラまでもが、「ヒットマン」をソニーの重役たちに配っているという噂が立った。
イェトニコフは、モットーラをクビにしようとしたが、その直後のミーティングで、大賀から会社を辞めるのは、モットーラではなく、イェトニコフであると告げられたのである。

また、ジョン・ピータは、バーブラ・ストライザンドが主演し監督する映画を造りたがっており、そのスクリプトを購入したいと、そのプロジェクトを立ち上げていた。

こうした状況には、買収に力を貸したピータ・ピーターソンも、ガバナンスに疑問を呈していたという。
そうして本当の危機が訪れていたのである。
そんなシャインとスタイナーの間に立って苦労したのが、田宮謙次であった。


◆ そしてレガシー造りの饗宴が始った

ソニー・アメリカでは、まるでいくつもの独立王国を示す様に、大掛りなビルの建設競争に乗り出した。

マンハッタンでは、ソニー・アメリカの本社ビルとして、また、ソニー・ミュージックとして、AT&Tがマンハッタンに所有していたテッペンビルと呼ばれたビルを購入した。
それは、周辺のIBM本社ビルやトランプタワーを見降すかのような超高層でその頂上階には、日本からのトップを迎えるために、日本から呼び寄せたすし職人が寿司を握って振るまう寿司バーまであった。

確かに盛田には、まだ売り上げが小さなソニーが、いわば全財産を投げ出して東京の銀座にソニー・ビルを建て、直ぐにニューヨークの5番街に日章旗とSONYの旗を掲げたショウ・ルームを建設して以来、ソニーのイメージ作りに拘ってきた歴史があった。
それはあたかも、盛田や大賀に重用されたミッキー・シュルフォッフがその社長として、盛田がアメリカのもう一つのソニーの本社であることを示すためのシンボルとし、またその代理人としての権威を示したシンボルでもあった。

そこには、ソニー・ミュージックのトップでもあり、マライヤキャリーの旦那であるモットーラや大賀等のお歴々もオフィスを構えており、ミュージック・ビデオの制作分野では、ソニー・ピクチャの居る西のハリウッドとビジネス領域を争っていた。

ソニー・ピクチャは、カルフォルニアのハリウッドに、”ソニーにNOと言わせなかった男達” が、映画製作スタジオと豪華なソニー・ピクチャの本社群のような広大な敷地にカルバー・シティを再開発を進めていた。

もう一つ、ソニー・アメリカのエレクトロニクスの本社は、ハドソン川を渡ったニュージャージにあった。ここには、ミッキーと犬猿の仲のロン・ゾンマーが社長となっていたが、彼が大賀の意向でドイツに帰国すると、田宮がそこにオフィスを構えた。
日本からのエンジニアの多くは、そのエレクトロニクスの本社ビルには、親しみを感じていたが、他のビルには、何かよそよそしさを感じていた。
作業時間を、1/10万時間単位で改善をするエンジニア達にとって、ニューヨークからハリウッドまで、お気に入りの歌手にバラの花で一杯にした自家用機を飛ばすということの意味は、理解不能であった。


◆ ソニーのブランド・イメージ戦略の象徴とは

音楽と映画業界に参入したソニーを待っていたのは、モノ造りとは全く次元が異なる、目くるめくような、イメージング競争とも言えるものだった。

それは、1本の映画の制作は、ビジネスのライフサイクルのマネジメントがあたかも、1つのイノベ―ション・プロジェクトを、あるは1個のエンタープライズのライフサイクルを早送りするようなマネジメントの様相を持っていた。

音楽もまた、アーテストを発掘し、育て、やがてその幾つかがレガシーとなる。
しかし、やがてタレントも、エージングし消えて行くまでの、一連のイノベ―ション・プロジェクト群が連続するビジネスであった。

[図4.5]
OutlineShape2

ソニーが買収したコロンビア・ピクチャーをマネージするため、ピータ・グーバ―と、ジョン・ピータズを雇ったが、彼らが使った金は、雇った大賀やミッキー・シュルフォッフ自身の度肝を抜くようなものだった。
彼らがハリウッドで建設したカルバー・シティに広大なスタジオを含むオフィス街は、あたかも二人を名プロデューサであることの構想力を示しイメージ付けするためのシンボルとなったもである。

これに負けじと、ソニー・ヨーロッパの本社ビルを、ドイツベルリンのポツダム広場に開発された ”ソニー・センター”である。
そこでは、盛田の信認が厚い、シミュックリーが、ソニー・ヨーロッパのトップに立っていた。
また、ドイツは、大賀のいわば第二の心の故里とでも言うべき所でもあった。


◆ 変調をきたしたソニーの財務体質

こうした中、ソニー本体のビジネスが変調をきたしたのである。
原価率は、既に意味を失っていた。本社のSGA:セールス&ゼネラルアドミニスとレーションは、25%以上に達していた。それは、トヨタ自動車の6%に比べれば、20%も多かったのである。もし、ソニーも乾いた雑巾を絞ることが出来れば、8,000億円もの利益を押し上げることができたであろう。

そこに、出井からのレポートが、大賀社長と伊庭専務宛に、届けられていたのである。
それは、岩城と出井が作った社内の小さなPLS研究所というシンクタンクが集めたデータに基づく幾つかの分析を基に、出井がトップ・マネジメントに具申したものであった。

この研究所は、落合良以下高田佐紀子等才識兼備の威勢のよい女性群の他、トリニトロンやベータや3.5インチフロッピーディスクの開発などで、企画を担当したものやそれを支えた谷川政司等も居た。
また、ベータのファインパタンのLSIの回路設計をデザイン・レビューで貢献し、英文ワープロで世界No.1の顧客満足度を勝ち取ったり、NEWSのソフトのマネージャ達を育てた嵯峨根勝郎もいた。
そして、芝浦工場に帰り咲いた鹿井信雄のスタッフとして一人豊島文雄が抱えられた後、彼のスタッフの仲間だった佐藤純夫を始め、大谷馨、神原等もそこに異動となった。
また古館博義や上條雅雄等人事から眼を掛けられたニークなタレントに恵まれていた。
また、岩城がアメリカに異動するにあたり、禁じていた新人の配属を解いたことで、優秀な人材が次々と参加してくることになった。彼は、メディア・ライフスタイル研究を託して、海外へ赴任していった。

そのミッションは、新しいメディア技術はどのような形態として実現するか、それによって、どのようなメディア・ライフスタイルが実現し、それらの交互作用は、どのようなビジネス・モデルを可能にするかを研究することであった。

このプロダクツ・ライフ・スタイル研究所は、ほどなく韓国のLG電子や、ドイツのメルセデス・ベンツ等でも同名の研究所が解説された。
また、IBMや日産などから、インターンシップで、1~2年間社員が派遣されてきた。
ソニー内のカウンター・パートとしては、ソニー・ドイツが、ほぼ同じ趣旨の研究所を開設し、月1回位、ソニーのテレビ会議システムを使って、主に、古館Gp.と議論を重ねていた。

毎年、数千万円掛け、全世界で、ユニークなメディア・ライフスタイルの調査を行い分析レポートを発行し、主なタイトルは数種類あり、それらは社内限定で販売した。また、社外向けにも3種類位を販売した。
中でも、佐藤純夫Gpが編集した未来年表は、関西の某電器企業の社長室の壁に張られていたとの報告もあった。

ソニーは、パッケージ・メディアのオーディオのメディアタイプでのデジタル化をCDで実現した。
そしていよいよ、それに続く次世代の、デジタルのマルチメディア化の時代を切り拓き、さらにデジタル・ネットワーク化の時代を迎え、そうした研究資産を引き継いで行ったのである。