1編

SONY 神話、あるイノベ―ションの物語
 SONY Myth, It's an innovation story of media

4章
ハードとソフトの協奏のデジタルのベルが鳴る


4◇  デジタル・システムプロダクツへの挑戦


4.1 デジタル・システムプロダクツの開発に挑戦

1)デジタル技術の進展とシステム・プロダクツの登場

デジタル技術という実(シーズ)は、どのようなプロダクツの花を咲かせて行くのだろうか?
それは、まずパッケージ・メディアとして、人びとの生活の場に登場した。その様相の一つが、当時話題となったマルチメディアであろう。それは、音楽から始まったが、やがてビデオへと進化した。

ただ、電気によるデジタル化は、電動式カリキュレータや時を刻む時計やマネーの出し入れを記録する金銭登録機などの数字のメディアタイプが早かったが、やがて文字のメディアタイプを電送するツー・トンという通信からであり、進んでテレックスとなった。
1960年代には大型計算機によるIMS: Information Management Systemへと注目が集まった。
1970年代には日本では、一般の電話回線でA4のドキュメントを送ることが可能なFAX等注目された。
1980年は、大型計算機のダウン・サイジングが進み、工場の自動化用にプロセス・コンピュータ、それに続いた事務職用のオフィス・コンピュータに期待が集まった。

ソニーでも、その頃になると基幹工場の技術や開発部隊が、オーディオやビデオや文字にいたる、あらゆるメディアタイプのデジタル化への取組みに挑戦を始めていた。
ただ、それはやがて単純な独立したプロダクツではなく、全てが、ネットワークとソフトという目に見えない非物質的な技術情報が介在するシステム・プロダクツとなる必然性があった。

それまではメカニカルな力を使うリンク機構や、これらを駆動するモータやプランジャ等の電力に依るものではなく、また電波や電気信号を増幅して伝えたり、電子を引出したり加速して光らせたりする単純な独立したスタンドアローンのプロダクツでは無くなったのである。

そうした品川本社、大崎、芝浦等の各基幹工場での別々に動き出したデジタルのシステム・プロダクツの開発活動は、組織としても統合して重複を避けるのが効率的であると本社の経営陣は考えたのであろう。
全てのデジタル製品の開発プロジェクトを、各里親から切り離して、厚木に新工場棟を建設し結集し、MIPS事業本部としたのである。
その中には、OA開発、マイコン(PC)開発,キャプテンやミニテル等のニューメディア開発、ホームパソコンやスイカ・カードやゲーム開発等のGpが含まれていた。

本部長はトリニトロンからCDやレーザ・ディスクなどの光ディスクの開発を進展させた宮岡千里が、副本部長にはやはりCDの製品化を実現させた出井伸之と大平隆夫が任命された。
大平は、沖電気からスカウトされて、ソニーが不得意だったシステム・プロダクツ・ビジネスの基礎を指導した。
その中には、ソニーが不得意であったフォーマットに関する標準化技術の考え方や基礎概念等の指導もあった。

これらの、4つのGp.は全てPCに関連した部隊であった。
(1)本社工場のOAのGp.からは、ビジネスの目途が着いた3.5インチFDDを切り離した残りの、世界初のラップトップPC、英文ワープロ、そしてドキュメントプロセッサー等が居た。
(2)本社工場からからのMSCがあり、堀建二を中心に古川俊介、福田譲治などが、CP/MをOSとしたパソコンの開発で、マイクロソフトを相手に勝負しようとしていた。
(3)芝浦工場からは、出井の子飼いのホームコンピュータのMSXがあり、ゲームのソフトGpも居た。
(4)大崎工場からのキャプテンやミニテル等のニューメディアのGpが居り、その中にはゲーム機を開発していたGp.もいた。


2)ソニーのデジタル化への再挑戦とサーバント・リーダ

出井は、副本部長として、ソニーで途絶えようとしていたデジタル技術陣を復活させた。
それは、従来のパッケージ・メディアのデジタル化だけでなく、その先のデジタルによるネットワーク化への挑戦でもあった。
また、ソニーがビジネスとしていた根底のサービス・コンテンツは、いわばプロが制作しセンターから一方的にトップダウンで一方的に配信される形態のものであった。
それを、分散された個人や小さな組織に至る個々の社会主体が、自律的にコンテンツを製作し発信し、ユーザを巻き込んで、インタラクティブなリッチなコンテンツの創発が実現できる時代への挑戦だったのである。
これこそ、本来のデジタル技術が持つパワーを開放しようとするものであった。

そもそも、こうしたソニーのデジタル化は、ソニーの半導体の開発の失敗の過程の中から、それを梃にした思いの中から生まれたと言って良い。
それは研究部を率いた植村三良から始まったといえよう。
植村は、ゲルマの半導体の歩留りが2から3%で、プロセスから出る半導体は、みな不良品であったがこれを何とかしようと考えた。

こうしたアナログの半導体は、入力する周波数に対し、この入力信号をどの範囲まで増幅できるかというダイナミックな周波数特性が、求められていた。
そうした不良品でも、例えば、早稲田や国立大学等の応用物理学の学生達には、めったに手にすることができないもので、ある周波数の特性が不良であるしても、そのサンプルは貴重であった。

植村は、東北大の数学を出ていたが、当時研究部長として、品川工場の西口の玄関を入ってすぐの一番古い4階建の鉄筋コンクリートの3階と4階にオフィスを構えていた。
1階と2階には、テレビのブラウン管と撮像管開発のため、吉田進部長の電子管開発部で課長の大越明男や荒木義敏等が入っており、地下には、MIL規格の衝撃試験機等があった。
彼らは、世界初のトランジスタ・テレビや、それに続く世界初のトランジスタ・カラーテレビの開発に挑戦しようとしていたのである。

そんなとき、植村のところに、ぶらりと社長の井深が入ってきた。
「植村さん、あんた、テレビでもやらんかね」と尋ねた。
「私は、テレビは嫌いです」 と、背丈は160センチ位ながら、背の高い井深を真っ直ぐ見上げて、キンキンと響く高い声で応えた。
すげなく拒否され、井深は近くに居た課長の吉田博文を振り返った。吉田は、音声が周波数でどのように変化するかそうしたピッチ効果に興味をもって研究していたのである。
課長の吉田は、柔和な顔で恥かむように、「私も嫌いです」と応えた。
こうした光景を、当時研究部に配属されたばかりの新人達は、新鮮な感覚を覚えたと語っている。因みに、周波数のピッチの問題は、アナログからデジタルにつながる技術領域である。

植村が好んだのは、磁気記録とデジタル化技術である。そして、この日々大量生産される不良品のアナログ半導体でも、ある特定の周波数で、ある特定以上の反応を示すものなら、それを使って、デジタル回路ができると踏んだ。
そして、そうした不揃いな反応特性でも、抵抗やコイル等を選別して組み合わせプラスティックでキャラメルのように包み外部とのインター・フェース仕様を満たすことで、不良のほとんどの半導体を使うことが可能なモジュール化に成功したのである。
それが、シャープと共に、世界初の 「電卓」といわれる製品開発に繋がった。それは後に江崎ダイオードと呼ばれる不良品のゲルマの半導体の活用法でもあった。

ただ、電卓といっても、やはりメモリー用には、そうしたモジュールを山のように用意しなくてはならない。そして、この黒モジュールは熱で特性が次第に変化し、電卓の組立ラインをまともに最後まで完成できる製品のストレート通過率は、20~30%に過ぎなかった。

しかし市場には、カシオやキャノンが参入し、秋葉原市場という世界で一番過酷な市場の煉獄の中で、ソニーの電卓の”ソバックス”は、中止に追い込まれることになる。

このとき、研究部出身だったソバックスの立上に関わった若者達は、それぞれ、各地のソニーの基幹工場や、その後吉田博文が立ち上げた中央研究所に身を寄せ、再起する日を待っていたのである。
そして後、再び、MIPSのデジタル・システム・プロジェクトや、厚木工場の情報処理研究所に集結することになったのである。

また、植村は、磁気記録をデジタル化し、長尺ものでも極めて精度が高い 「マグネスケール」 を開発した。
これは、機械加工の精度を10~50倍以上向上させるのに成功し、NCや日本のもの造りに大きく貢献した。
また、電子機器の加工や細かい部品を基板に挿入する生産機械の実現にも寄与し、カムコーダや携帯電話の開発にも貢献したのである。

こうした流れを受け、出井は、ソニーの全社のデジタル・システムプロダクツ群の開発プロジェクトのMIPS本部の事実上の運営を任されたのである。
ソニーの中で、エレキやメカのエンジニアに比べ、上司の先輩が少ない中、どうしても評価され難くいソフト・エンジニア達を何とか支援したいと、出井は考えていた。
つまり、彼は、まさに、日の当たらないソフト・エンジニア達ののサーバント・リーダとして、登場したのである。


3)マイクロ・プロセッサの進化の概略をたどる

世界に先駆け、ゲルマの半導体で量産型のトランジスタとそのプロセスを開発し、続いてシリコンの量産型半導体とそのプロセスを開発し、常に世界の半導体をリードし続けてきたソニーは、井深の建てた世界初の、トランジスタ・ラジオとトランジスタ・テレビ、そしてトランジスタ・カラーテレビという ”明確でスジの良い強い目標”に導かれていたからである。

ただ、このような開発目標は、次世代にベータマックスを引き継いだときまでは、バイポーラのLSIとしても、その優位を誇っていたが、逆にこれが、デジタルの時代のC-MOS半導体で後れを取ることにもなった。

”技術とは、物質やエネルギーの不確実性を低減する情報でる”とは、E.M.ロジャーズの名言であるが、まさにその代名詞でもあった半導体の次世代へのジャンプは、C-MOSであったといっても良い。
そしてC-MOSこそ、大きな投資をすれば、省電力でかつ複雑な回路を製造プロセスとして大量に生産でき、大きな収穫逓増型のスケール・メリットを享受できるデジタル化時代のキー・テクノロジーであった。

このC-MOSを使ったデジタル化の大発明が今日のICT時代の扉を明けたのである。
この道筋上での大発明である今日CPUと呼ばれるマイクロ・プロセッサと、その最も重要な用途となったパソコンの歴史を振り返ってみよう。

マイクロ・プロセッサを実現する様々な基本技術は1970年頃までに、各方面の用途からのシリコン上でのC-MOS化とワンチップ化の半導体の集積法への接近が始まっていた。
パソコンは、CPUという中央演算計算ユニットという仕組みの発明から始まった。

CPUは、単純にいえば、①プログラムカウンタ,②命令デコーダ,③演算回路から構成されている。
①プログラムカウンタは,次に実行する命令の場所(アドレス)を記憶する部分で、指定された命令を読み出し,命令デコーダに入力する。
②命令デコーダは,命令をCPUが処理できる信号に変換する部分で、読み出した命令をCPUが処理できる信号に変換し,演算回路に入力する。
③演算回路は、命令に合わせて足したり引いたりの命令を処理する。
ここで,プログラムカウンタは自動的にカウントアップし次の場所(アドレス)が指定されます。

つまり、CPUは、それが扱うデータが、その処理をするデータと、処理されるデータと演算した結果のデータを保存する場所やその処理をする条件や順番や手順などの手続きとしてのプログラムかを問わず、データとして収納できることにあった。
それは、いわゆるストワード・プログラム型の半導体の構造を固体を大量に生成する製造プロセスの中で封じ込めるができたのである。
そして、さらに、その外部から介入して、手順自体を書き換え編集ができるようになって、いわば、ヒトと会話し、進化できるような、いわば、「アクテブなフォーマット」に変身したのであった。

また、外部からのデータの供給ばかりでなく、新しいプログラムの供給ばかりでなく、プログラムのバージョン・アップ等の修正もできるようになった。これは、いわば成長するフォーマットに従う生物のようなものになったのである。
それらのデータやソフトを供給する外部記憶デバイスとして、パンチテープやパンチカード、そしてフロッピー・ディスクへと進化し、ヒトと機械による新しいデータから、新しい情報の抽出や知識の組立が可能となったのである。
つまり、データや知識等の燃料を外部に対し取り入れ口をオープンした、まるで生物のようなエンジンに進化したのである。

これにより、人びとが考え出した何かの用途に関する用法としての知識は、機械がそれで自走する自然な法則として、特許の権利さえ認められる途が開かれたのである。
それが方法特許であり、またプログラム特許や著作権で保護されるようになったのである。それまでの発明は、新しい物の”新しい構造”か、その”構造を実現する製造法”の構成しか対象とならなかったが、新しく、データや情報を分析する方法も、特許の対象となってきたのである。

むかし、1968年に出版された D. A. Fraserの統計学の"The Structure of Infearence"の本に記載されていた、”だれも、この本の内容を著者に断りなく機械語に翻訳してはならない”という主張は、著作権でも、特許権でも実現できるようになったのである。
ただ、後追いの日本での特許権法では、ようやく2002年に実現した。


4)マイクロ・プロセッサの誕生と遅れたソニー立ち位置

繰返しであるが、CPUが画期的であったのは、この仕組みが全て半導体の塊としてのLSIチップに刻み込むことができ、それを一貫した工場プロセスで現物化でき大量生産が可能となったことで、どんどん複雑になり、なにより大型投資さえ覚悟ができれば、幾らでも大量に生産できコストがどんどん安くなって行く収穫逓増型のキー・デバイスだったことである。

1971年11月にインテルから発表された4004はテッド・ホフによる基本的なアイディアと、嶋正利による論理設計とフェデリコ・ファジンによる回路・マスク設計による、最初期のマイクロ・プロセッサとして知られている。

しかし、TI:テキサス・インストルメントは、ゲイリー・ブーンが、シングルチップのマイクロ・プロセッサに関する特許を1973年に取得した。
そしてTIは、マイクロ・コントローラに近い構成のLSIのTMS 1000は、インテルに先駆けて1971年9月に電卓向けプログラムを内蔵したTMS1802NC をリリースしている。
1971年と1976年、インテルとTIは包括的なクロス・ライセンス契約を締結し、インテルはTIの持つマイクロ・プロセッサの特許に対してロイヤリティを支払った。

ただ、ソニーを含め多くの企業から、ほぼ同時期にマイクロ・プロセッサの概念のLSI化がトライされている。
ソニーでも、ソバックスという電卓の矢継ぎ早の機能開発競争に明け暮れるなか、古川俊介や田中義礼等のエンジニア達は、ほぼ、CPUと同じ構造体を開発すべきとの結論に達しつつあった。

それは、いわゆるメインメモリーに決められた命令コードだけでなく、外部から書き変え可能な命令コードを備えたもので、ストワード・プログラム方式と言われるものである。それにはシリコン上で、ポータブル・ラジオの信号処理のワンチップ化回路の生成の成功もあったのである。
しかし、ソニーは、井深がトリニトロンやベータマックスの信号処理のバイポーラのLSIの開発を優先したことから、CMOS化とそのLSI化に遅れをとることになった。

1971年発表された、インテル4004は、日本のビジコンと米国のインテルによって共同開発された1チップの世界初の4ビットのマイクロ・プロセッサである。PMOSプロセスで3mm×4mmのチップの上に2,300個のトランジスタを集積、10μm (0.01mm) ピッチのプロセス・ルールで製造された。
その翌1972年4月、4004の後継として発表された8008が世界初の8ビットマイクロプロセッサである。これも10μmルールのPMOSロジックで実装され、トランジスタ数は3,500個である。
これを発展・改良させる形で、1974年インテルの8080が誕生、さらに1976年、その上位互換品で速度・機能などを向上させ、これが名器ザイログのZ80が誕生に繋がった。

一方それらとは系統が異なるモトローラのMC6800というプロセッサも構想され1974年から製造、そのMC6800とバス互換としつつパイプライン処理の採用などの改良を加えたモステクノロジー社の6502が1975年に発表された。こうしてZ80と6502が覇を競うことになった。

Z80も6502もシステム全体のコストを低減することに注力しており、パッケージを小さくし、要求されるバスを単純なものにし、それまで外部に別チップだった回路を内蔵した。
これにより1980年初頭にホームコンピュータ(ホビーコンピュータ)市場が新たに生まれ、それなりに使えるマシンが、$99で売られるようになった。

モトローラが「切り札」として1979年に発売したMC6809は、命令セットに直交性があり美しい設計の、最も複雑な回路ながら最もパワフルな8ビットマイクロプロセッサであった。

1970年代のNASAの宇宙探査機ボイジャーとバイキングや、木星探査機ガリレオにマイクロ・プロセッサが搭載されるようになり、1976年に発表されたRCA社のCDP 1802が使われた理由は、消費電力が極めて小さいことと、非常に広い電源電圧範囲で動作すること等があった。
1980年にソニーの世界初のラップトップのPCでも、これを採用した世界初のコンスーマ向け製品となった。

このタイプコーダが発売されたとき、マイクロソフトの社長のビル・ゲーツと副社長の西和彦は、明け方近くまで掛かって分解し、「なぜソニーはこのCPUをZ80にしなかったのか?」と溜息をついた。そして後日、なぜだ、とソニーの企画担者に質問したことがあった。
一方、これも後日談ながら、MITのネグロコンテは、タイプコーダを使って6か月間かけて、メディア・ラボの構想を練ったという。
「なぜソニーが世界初のラップトップPCを造ったときは、ドライバッテリーで駆動でき、電源コードが着いていなかったのに、現在のラップトップには全て尻尾がついているのか」と、数年前のWiredにエッセイを寄せている。
もちろん、ディスプレイの大キサもあるが、当時登場したばかりのCMOSのCPUとCMOSのRAMメモリーを搭載したことが大きかったのである。
それが、ビルゲーツと西の疑問への回答でもあった。


5)パソコンへのB2BからB2Cへの進化の流れがあった

既に述べたように、アメリカの1980年のOA元年から始まったパソコンの歴史を、3.5インチのFDDによって完成されたIBM PCのいわゆるIBM ATコンパチの業務用PCの歴史として辿ってみたい。
それは、あくまでワード・プロセッサとクロス表計算ソフトをコア・アプリとする用法に焦点を当てたものであった。こうした用途は、いわばB2Bの流れである。

それと対極からのパソコンへの挑戦は、いわばB2Cへの進化の流れがある。そこにも、日本と欧州勢とアメリカとの宿命の対決があった。
それは、日本とフィリップス等のいわゆる家電メーカからのアプローチであり、また、電話のように使えるというホール・プロダクツを目指したスチーブ・ジョブス等のアップルからの挑戦であった。
コンスーマにとって、業務用PCは、用途やその目的が定まらないオープンエンドないわば未完成のプロダクツである。

それに対し、ワープロ専用機やゲーム機や音楽用キーボード等の専用機は、それ専門のでデディケイテッド・マシーンとして、使い勝手を重視するソニーでは、圧倒的に、こちらを支持する考え方と勢力とが強かった。
これは、いわば、井深や盛田や大賀や鹿井等と、岩間や出井との思想の違いでもあった。

こうした1980年頃に始まった、ホームユースのパソコン、つまり非業務的で、非専用の用途を絞り切らないオープン・エンデッドなパソコンの進化の歴史を振り返ってみたい。



4.2 ソニーのコンスーマ用パソコン・フォーマットへの挑戦


1)コンスーマ用パソコンの誕生と進化

最初のパソコンはキットを組み立てるホビーPCだった

最初のパソコンは、アップルも今のような完成品ではなく、キットを一式購入し、ユーザが組み立てる必要があった。
また、日本でもNECから発売された開発用キットに目を付けたマニアが、一式購入し組み立てて、機械語やベイシック等の初期の高級言語で、プログラムを書いて動かすところから始まった。
これ等がヒットとし、それぞれがパソコンというカスタマーが自らプログラムを組んで、好きな機能を持つ形に出来るようなオープンな製品形に思いつかされたのである。
アップル2も、NEC98も、そうして生まれたのである。

そのNECのパソコンは、PC-8001の開発は1978年夏頃に始まった。
開発を指揮していた渡辺和也は、アスキーの西和彦の仲介でマイクロソフトのBASICとビル・ゲイツの紹介を受けた。
渡辺はマイクロソフトやアメリカの市場調査に向かおうと考えたが、当時のマイクロソフトは社員10名余りのベンチャー企業で、パソコン市場も創生期にあって公に認知されておらず、出張の言い訳が難しかった。
そこで、1978年11月にロサンゼルスで開催された見本市「ウェスト・コースト・コンピュータ・フェア」 を見学するという理由を付けてアメリカに渡り、見本市の見学は1日で済ませて、マイクロソフトへの訪問や市場調査に向かった。この出張で渡辺はアメリカでデファクト・スタンダードになりそうなマイクロソフトのBASICを採用すると決めた。

NEC社内には、PC-8001用に開発していたBASICが既にあった。社内には大企業たるNECが小さなマイクロソフトからソフトウェアを買うことに抵抗感を示す者も少なくなかった。
しかし、マイクロソフトのBASICが他社で使用されている動向を見て、採用することにしたのである。
また、西はマイクロソフトの日本代理店として最初の大型顧客を獲得するため、マイクロソフトのBASICを非常に安い価格でNECに提供した。

NECの初歩的なOSとも言えるN-BASICはマイクロソフトのDISK BASIC をベースに、PC-8001用にグラフィック機能や通信機能を強化して開発された。ビル・ゲイツと西和彦が主設計を担当し、マーク・ウィルソンがプログラムのコーディングを担当したと言われる。

一方、アメリカでは、ゲイリー・キルドールが創業したデジタル・リサーチが開発したOSの 「CP/M」が登場しつつあった。
CP/M は、8080/Z80ベースのコンピュータ向けから始まり、後に MS-DOS や Microsoft Windows に取って代わられるまでデファクト・スタンダードであった。

IBMのPC開発時も、DR社にはインテルの8ビットのCPUの8086マイクロ・プロセッサ向けの CP/M を開発しないかという打診があった。これがすれ違いに終わった経緯に関してはいくつかの話が伝えられている。
1981年末にIBMは16ビットの8088マイクロ・プロセッサPCが登場したとき、OSはマイクロソフトの PC-DOS であった。
これは、CP/M が 8086 に移植されないことに業を煮やしたシアトルコンピュータ社のティム・パターソンが4ヶ月で開発し、CP/M互換のコマンドを持つ 86-DOS がベースとなっていると言われる。
マイクロソフトはこれを1982年中ごろからIBM以外のコンピュータ向けにも MS-DOS として販売し始めた。これによりマイクロソフト社は、デジタル・リサーチとの闘いから、ソフトウェア業界のトップにまで一気に登りつめることとなったのである。


ソニーのSMCパソコンへの挑戦

当時、ソニーは、パソコンではなく”マイコン”と呼んでいたが、岩間が作ったマイコン開発部の堀建二部長の元にいた課長の古川俊介や係長の福田譲二は、キルドールと親交があり、ソニーのマイコンは、SMC-70として、OSは、CP/Mを選定していた。
OSの登場は、ソフト・プラットフォームの誕生といわれる。ソフト・プラットフォームに対応して例えばディスプレイ等のハード・プラットフォームがある。
これらの標準規格が統合され普及していなければ、新しいアプリケーションは生まれて来ない。
スタンダーダイゼーションと共にユニファイゼーションが大切になるのである。

パソコンにとってOSの出現は、ハードとソフトを絶縁することで、それぞれの進化の開発速度に自由度を与えた点にあると言える。
ハードの半導体の進化のスピードはいわゆるG.ムーアの法則で1.5年で倍々に進化するのに対し、人びとが操作する用法としてのマンマシンのやり取りを習得し使いこなす進化のスピードは極めて保守的であり遅い。
OSには、幾つかの効用があるが、その最たるものの一つは、これであろう。

このデジタル・リサーチが開発したOS のCP/Mは、インプットとアウトプットの周辺機器のインター・フェースを、BAIOSとして切出すことで、アプリが要求する多様な周辺機器をシステムとして対応できるOSのバージョン・アップに同期させる自由度を確保した。
そしてアプリの多様化と進化に対応できる画期的な技術概念を提供しパソコンがまさに、大きく飛躍できるソフト・プラットフォームとなったのである。

用法がオープンとなったパソコンでは、このOSの登場がまさにゲーム・チエンジャとなった。
また、同様に、ハードとしての周辺機器とCPUやマン・マシン・インターフェースを絶縁し、モジュール化したCP/MというOSも、PCの進歩に対し、大きな貢献をしたのである。
ハード・プラットフォームとしてその普及ができていても、その上にバラエティに富んだ用法としてのサービス・コンテンツが実現できる訳ではない。
このBAIOSの登場によって、基本的な作業に必要な周辺機器の発展を享受できるようになったのである。

ソニーがCP/Mを採用したのは、多様な高級プログラム言語のインタープリータがあり、また多様な周辺機器と対応できたからであった。
まず、取り外しできる二次記憶装置もオーディオ用のカセットテープから、3.5インチのデジタルディスクへの進化への対応が必須であった。

これらの転送速度も、カセットテープでは毎秒120ビットだったが、3.5FDDでは毎秒250Kビットと2000倍となった。つまり、A4一枚のワープロ原稿を読み書きするのに必要な時間は、カセットテープだと4000/120=33秒掛ったのが、0.02秒以下になったのである。

また、エヂソンの作ったパリティである640ドット/水平ラインの解像密度を実現できるブラウン管のディスプレイ・モニタの開発が進み、さらにエプソンから対応できるインクジェットプリンターも開発されるようになって、ようやくパソコンの標準のホール・プロダクツのコンフィグレーション(機械構成)のフォーマットが完成したのである。

この1980年代初頭、日本国内におけるホームユースのパーソナル・コンピュータは、ソニーではマイコンといい、OSフォーマットは、キルドールのCP/Mで、またマイクロソフト社は、BASICであった。
やがて、ソニーが開発した3.5インチFDが、PCの標準装備となって、IBM PCも、標準アーキテクチャに辿りつく時代を迎えようとしていた。


2)SMXというホームパソコンへの挑戦と貢献

MSXという日本のパソコンのフォーマットは、失敗だったとする見方が多い。確かに、アメリカで成功し世界を制覇したIBM PCや、日本でデファクト・スタンダードとなったNECの98シリーズに比べると、そうした見方も否定できない。

しかし、21世紀になって、デジタル化とネットワーク化の波が、押し寄せてくる時代を用意したMSXというフォーマットが新しいICTの時代のライフスタイルに果たした役割は、大きい。
それは、ホーム用やパーソナル用の映像や画像のエンターテインメントばかりでなく、音楽やゲームやアニメ等インタラクティブな操作や、文章や表計算ソフト等の知的な情報処理に至る道筋を探った先進的役割でもあった。

特にホーム用からパーソナル用のオーディオ・ビジュワル電子機器で世界をリードしつつあった日本の業界に対し、ホーム用やパーソナル用メディアのデジタル化には、世界中が注目していた。
話しを少し戻し、以下、ウィキペディアに沿って、補足補正しながら辿ってみる。

当時マイクロソフトの副社長であり、アスキーの副社長だった西和彦は大半の機種の開発に関わっていたことから、多くのメーカと繋がりがあった。
そのため、MSX規格のPCは、西和彦が、NEC、シャープ、富士通のパソコン御三家に対し、出遅れた家電メーカの大同団結を背景として、1983年6月27日に発表された。
「MSX」の名称は発売当時マイクロソフトの商標だったが、1986年のアスキーとの提携解消の折に著作権をマイクロソフト、商標権をアスキーが所有することになった。

MSXの発表会には参入家電メーカ以外にも家庭用パソコン市場に参入した経験を持つ企業、または参入を計画していた企業が多数参加した。
しかし、参入メーカ各社の足並みを揃えるため1984年に発売時期を調整している間に、任天堂のファミリーコンピュータや、セガのSC-3000等の競合機種が発売され、当初から苦戦が予想された。

また、当時国内パソコン市場シェア1位のNECは発売せず、シャープも海外でのみ発売するに留まった。FM-Xを発売した富士通も 「自社の製品と競合する」 といった理由でMSX市場からは短期間で撤退。そのため、MSX規格は「弱者連合」などと揶揄された。

主要家電メーカの製品の発売は1983年の秋から年末までに出揃った。
アスキーは当初「1年間で70万台の出荷」という強気な目標値を掲げ、目標は達成できなかったものの、発売から2年強が経過した1986年1月にはMSXシリーズの総出荷台数が100万台を突破した。
当時、国内メーカ製の8ビットパソコン市場で大きなシェアを有していたNECのPC-8801シリーズが累計100万台キャンペーンを企画していたが、台数的に達成出来ず結果として実現しておらず、当時としてMSXは、“日本製で最も売れた8ビットパソコン” として位置づけられる。

MSXは 「子供に買い与えられる安価なパーソナル・コンピュータ」、「コンピュータの学習の入門機」 として設計された。
まず一般家庭への普及を目指すため、ディスプレイのハード・プラットフォームを一般のテレビとした。
標準の構成で家庭用テレビにRF出力が可能とした。ただ、これが、ワードや表計算では、エディソンのパリティ・ルールにひっかかったのである。 

また、当時の一般的なホビー用パソコンと同様にBASICインタープリタ(MSX-BASIC)を搭載した。
このようにMSXは位置づけこそ入門機であるものの、単に子供に買い与えゲームやBASICで遊ばせる 「入門機」としての側面のみではなく、その後必要に応じてシステムを拡張し本格的なコンピュータやソフト・ウェアの学習にも繋げて行くことが可能な、総合的なホーム・コンピュータとして設計されていた。 

MSX1の時点では半角文字の80カラム(1行80桁)表示も不可能だった。
これが、エディソンのパリティ・ストラクチャに引っ掛かり、ビジネス向けには、発展できない最大のボトルネックとなったのである。

また、漢字ROMの仕様はあったものの標準搭載機はごく限られており、漢字の表示に関しても当初は統一仕様が存在しなかった。
さらにFDD:フロッピー・ディスクドライブも、機種によってはオプション設定で、システムの設計に反して本格的なコンピュータと認識されることは少なかった。つまり、ユニファイゼーションに欠けていた。これは、当時、松下と日立がソニーの3.5インチに対抗し3インチのFDDを主張していたことが尾を引いていた。

この評価はのちに、表現力を増し、FDDを搭載していれば最低仕様のままでMSX-DOSの動作も可能となるMSX2の登場によって、一時的には解消されることとなる。
しかし、その後MSX2の市場は熾烈な低価格化競争に突入し、安価な一体型MSX2マシンが普及したため、最終的に「子供向け」, 「ゲームマシン」との見方を返上するには至らなかった。
それは、MSXが松下電器や日本ビクターなどのように家電品のルートで販売されたり、ヤマハや河合楽器などの楽器店のルートで販売されたり、フィリップスやNTTのキャプテンシステムのようにニューメディアと位置づけて販売された事情による。
そしてMSX参入各社は、他社製品と差別化を図るべくワープロや動画編集など様々な機能を付加したMSXパソコンを発売した。
しかし、御多分に漏れず、秋葉原というすり鉢で、参入各社間で価格競争と機能競争が繰り広げられた。

ただ、1980年代のオランダやスペインではMSXは、コモドール社のコモドールやシンクレア社等を抑え、最も人気のあるコンピュータだった。
また、欧州以外でも南米諸国や東アジア諸国、アラブ諸国、アメリカ合衆国でも歓迎された。

1990年には販売台数が全世界累計で400万台を突破した。
しかし、この頃になると、16ビット機が絶対的に優位となった。
MSXも1990年10月には16ビットCPUを搭載した新規格のMSXturboRがリリースされたが、MSXとの互換性を採ることができず、不発に終わった。

そして、遂にMicrosoft Windows 95が登場し、PC市場を拡大してデファクト・スタンダードとなった。
MSX以外にもX68000やFM TOWNSといった日本独自規格のPCが姿を消して行き、日本でも、Windows95が動作するPC/AT互換機およびPC-98またはその互換機か、あるいはMacintoshへと集約されていった。

とはいえ、MSXによって、幾つかの周辺のデジタル・フォーマットが開発された。
例えばMSXの音楽用の周辺機器のMIDIスタンダードの処理用半導体は、ヤマハがリードし、そこからの特許収入が、スタンフォード大学の2番目の財務に貢献していたという事実からも伺い知ることができる。

また、MPEG というデファクト・スタンダードとなったマルチメディアのフォーマットがある。これは、 Moving Picture Experts Group の頭文字を取った言葉であり,本来マルチメディア符号化を行っている組織の略称であったが,最近では,この組織が作成した標準規格の呼び名としても使われている。

MPEG規格はもともと,蓄積メディア,放送,通信などのためのマルチメディア符号化の規格であり,主にビデオ信号の符号化方法に関する規定,オーディオ信号の符号化方法に関する規定,及び両者の統合方法などのシステムに関する規定,の3つから成り立ったものであった. 
そしてオーディオも、ビデオもこの転送速度2.5メガビット/セカンドというビットレートの技術基盤の上で成長し、花開くことができたデジタル・フォーマットだったのである。



3)ホームPCを制覇したアップル2

スティブ・ジョブズは、初期のコンピュータが特定の用途向けに設計され、政府や教育、ビジネスなどの場で専門家が利用するものであることをよく理解していた。
彼とアップルの共同創業者のスティーブ・ウォズニアックは、1975年頃にコンピュータ市場を分析し、エド・ロバーツが開発した世界初のパソコン 「Altair 8800」 に多大な影響を受けた。

1975年にポピュラーエレクトロニクス誌で紹介されたAltair 8800の価格は、ウォズニアックには手が届かないものだった。そこで、彼は自分でパソコンを作ろうと思い立ち、そこにジョブズが加わってアップルの歴史が始まった。

ジョブズは、Apple IやApple IIのマーケティングを手掛けながら、アップルの成功の礎を築いた。1981年にIBMが初代のパソコンをリリースしたが、同社のオペレーティングシステムであるDOSは、まだまだ使いにくく、使いこなすためにはトレーニングが必要だった。

アップルの設立から1982年頃まで、ジョブズはコンピュータをより広い層に普及させるためには、もっと簡単に使えるようにしなければならないという思いを強くしていた。この信念が、ジョブズと彼のチームを突き動かし、最初のブレークスルーを生み出した。

ジョブズは、Macをリリースする3年前にゼロックスを訪れ、世界初のグラフィカル・ユーザ・インタフェース(GUI)を目にした。
当時のインター・フェースはテキストベースだったが、ジョブズはGUIがコンピュータの操作性を革新させることに気づいた。
ゼロックスがそのGUIを使って商品化することはなかったが、ジョブズはそのGUIを世界で初めて採用したパソコンであるMacを発売した。

これにより、ジョブズが目指したように、パソコンは子供でも扱えるほど簡単になった。アップルのGUIは直感的で、ウィンドウズのライバルとなった。現在、GUIはあらゆるコンピューティング・プラットフォームにおいて、マン・マシン・インタフェースの中核を成している。

使いやすさを追求するジョブズの姿勢は、やがてiPodを生み出した。初期のMP3プレーヤは標準的なインター・フェースが存在せず、使い勝手が悪かった。
アップルは、iPodのUIを整備して音楽を簡単にダウンロードできるようにし、その結果としてMP3プレイヤ市場が爆発的に拡大した。

iPhoneの誕生は、インター・フェースをシンプルにするというアップルの姿勢をより強固なものにした。
パーム社のPalm PilotなどのPDAの初期モデルは、専用のOSとUIを採用していたが、アップルは、3.5インチのディスプレイと直感的なGUIを備えたiPhoneをリリースし、ポケットコンピューティングを現実のものにした。

さらにアップルはOSとシンプルなUIを備えたiPadをリリースし、タブレット市場を確立した。
アップルの使いやすさを追求する姿勢は、アップル・ウォッチにも反映されている。アップル・ウォッチのUIは直感的で使いやすく、スマート・ウォッチをメインストリームに押し上げた。

一方、MACを3.5インチMFDやトリニトロン・モニターで応援したソニーのデジタル・プロダクツは、岩間の突然の死によって、早くも衰退を始めていた。




4.3ソニーのデジタル・システムプロダクツの敗退


1)データ・プロのユーザ満足度No.1の英文ワープロ

MIPS事業本部の発足には、ソニーが育てたキー・デバイスは外販せずあくまでコンスーマに完成品を届けるという理念を破って、盛田と大賀のベータマックスで仲間作りに失敗した経験から、OEMビジネスを立ち上げることにした。

まず、OA事業部から3.5インチMFDは、HPとAppleという顧客が着いておりビジネスが軌道に乗り始めていたので切り離され、そのトップ陣の加藤善朗と松山政義が、田中義礼等を連れてメカトロ事業部として独立し、残りが全てMIPSのOA Gp.に収容された。

OAの3兄弟の中で、次男に当るS/35の英文ワープロは、B2B用として、業界誌の”データ・プロ”で、アメリカ、カナダ、英国のプロ達からのユーザ満足度No.1の栄養を勝ち取った。
そして少しづつではあるが売れ始め、売上は年間100億円位になった。

しかし、先に生まれた末っ子のラップトップのタイプコーダには、兄貴分のモデルの英文ワープロがその上限のバウンダリー・シェルとしてこれを引き上げるには販売数量が力不足であった。

また、最後に船出した一番兄貴分のレーザ・ディスクを使ったアメリカのパテント・オフィス向けピクチャ・プロセッサ・システムは、大きな開発負担を抱えて赤字を膨らませていた。
考えてみると、この3兄弟は、生まれる順序を間違えていたのかも知れない。


2) OAのスヌーピーの3兄弟が迎えた運命

生まれが本社で、いわば育ての親を亡くしていたOAとMCは、厳しい情況に向き合うことになった。
売れないとは言っても、年100億円規模になっていたOAのワープロと・タイプコーダ一部は厚木の情報機器事業本部の預かりとなった。

もともと、MIPSは事業本部とはいえ、自前のマーケティング部隊は無く、同じ厚木工場に情報機器事業本部の営業とその出先のアメリカの放送機器の営業部隊のお世話になっていた。
いわば、アメリカ市場向けだったOA関係は、管理部門まで、何かとそこに、お世話になっていたのである。

タイプコーダは、里親の情報機器本部の管理部門から、利益率を最初から情報機器本部と同じレベルにするようにと、価格について注文が着いた。
それは、里親の本部長への本社からの評価を下げないようにと、忖度する管理部門からの圧力でもあった。当初$700のコンスーマショップでも売れる企画であったが、結局、$2,800となり、値付けにも、また販路とのマッチングにも失敗した。

さらに、打ち込んだテキスト情報を吐きだす口を求め、世界初のポータブルのドット・マトリクス・プリンターや、電話による音声カップラーや、テレックスのテープパンチャや、IBMのセレクトリック・タイプライタ等盛田の情熱的な開発部への提案が、雨あられの如く降り注いだ。
そしてそれぞれの駆動用のソフト開発を置き去りにしたまま進めざるを得なかったこともあって、結局、”インフォメーション・フロー・マッチング”が不備のままで置き去りにされた。
これは、スチーブ・ジョブスの狙ったホール・プロダクツとは目指すところは同じではあったが、開発部隊のメカとエレキとソフトのエンジニア勢力への配慮が伴っていなかったのである。
こうして、タイプコーダ―は、テイクオフすることなく失墜した。

またこの時はまだ、短期間での固定の標準原価率でしか評価尺度がなく、習熟率を加味した評価は、半期が済まないと原価差額修正ができなかった。
当時個人の作業時間の習熟理論の研究は学会でも盛んであったが、大崎の評価グループの下村正治は、生産ラインの習熟理論を研究し、最初の製番ロットを流し始めて3日間のデータで、その到達できる限界を予測するモデルを確立していた。

ただ、厚木工場のスタッフは、B&Pというアナログ製品の多品種少量生産の枠の中での体制で成功していたこともあって、1台売って、徹底的にサポートするビジネスモデルとは真逆のカテゴリーのビジネスであった。
このデジタル時代のダイナミックな、収穫逓増型の先を読むプライシング理論を開発する意欲にも欠けていた。なにより、里親である情報機器本部のすねを齧る厄介ものとの、受動的反撃性症候群の様相を呈していた。

こうして、加藤の下で林義郎が企画し、鹿島がプロジェクト・リーダとなっり、盛田昭夫がテープコーダ以来長年温め、自らプロジェクト・オーナを務めたタイプコーダは、夭折した。
最初のスヌーピープロジェクトの3人兄弟の末っ子のタイプコーダが、言わば里親の母体を守る免疫反応によって、流産となったのである。

また、S/35についても、情報機器本部の営業担当副本部長から、「すでに売った顧客から、商品を買い戻したら幾ら掛かるか?」 との問合せが企画担当に寄せられた。
「まあ、500億円もあれば何とかなるでしょう」で、この話は一端は、終わりとなった。
しかし、まもなく、嵯峨根の担当していたS/35の英文ワープロも、堀が率いていたSMCのパソコンも、井深亮が手掛けていたレーザ・ディスクのドキュメント・リトリーバル・システムも、ばらばらに落ち行く先を見つかなくてはならなかった。

出井は、MIPSの担当を解かれ、このドキュメント・リトリーバル・システムをもって、芝浦工場に戻った。
しかし、そのアメリカのPTO:特許庁への応札の価格は、いわば、「お断りします」というメッセージでの通達でもあった。


3)大容量のCD ROM とレーザ・ディスクへの挑戦

アメリカでは、OAディーラの獲得に手間暇がかかっていたとはいえ、S/35の英文ワープロは、外付けのCD-ROMで、フォートン・ミフリンの辞書との連携ができその知的資産とのインター・フェースで、スペルチェックやオート・ハイフネションは元より、用語の用法(application)のアドバイス等の可能性が広がっていたのである。
そして、容量が大きなCDのマルチメディア化ができれば、その知的資産とのインタ・フェースのフォーマットの先には、弁護士や公認会計士や建築事務所等の各業種向けには、各種の文例やテンプレートを付け、テキスト・アッセンブリの領域が広がっていたのである。

また、出井は、この時期、ホームパソコンのMSXと、フィリップスとソフト・アライアンスを組んでCD-iの開発に取り組んでいた。
CD-iは、転送速度等のハード・フォーマットはCDを踏襲しつつ、CDを単なるオーデォメディアではなく、パソコンの外部記装置として、文字やデータや画像、映像の多様なメディアに進化させようとデータも映像も画像も扱えるマルチメデイアとして成長させようとしていたのである。
しかし、ストリーミング・コンテンツを扱うとすれば、高速なリアルタイムOSの開発が必要となる。これもフィリップスとの共同開発となった。

また、映像や画像までとなると、それらをガイドする目次機能のロジカル・フォーマット(論理形式)を決め、標準化しなくてはならない。
CDの物理的フォーマットや転送速度やトラック間のヘッドの移動やトラッキングコントロール等のハードフォーマトは、維持するにしても記録内容やコンテンツの書誌情報等を記載する番地やロジカル等のソフト・フォーマットは、まさにCD-ROMやCD-iの用法に関わる重要な要素である。

しかし、これには用法として、どのような要求仕様となるかが決まらないと定まらない。
それで苦肉の策で採ったのが、その部分は、将来のために”オープンにする”という決定であった。つまり、それを将来のユーザ等の衆知に任せようとしたのであった。
結果として、これは、大正解であった。その”オープン化戦略”こそ、出井が得意した 「ソフト・アライアンス」 の重要な事例の一つともなったのである。

そしてこの 「ソフト・アライアンス」 こそ、日の当たらないソフト・エンジニアに対して寄り添った ”サーバント・リーダ” と共に、出井のマネジメント・スタイルを特徴づける終生変わらない哲学となったのである。




4.4 デジタルの復活を目指して


1)IPS本部の解散

社長の大賀と副社長の岩城の経営管理体制は、盛田が目指したビジネスの分野やグローバルな展開等の拡大と、岩間が目指した経営体制の近代化を継承するものであった。
しかし、急速に悪化した財務体質を改善すべく、外部からコンサルを導入し、その助言を基に、社内のリストラを進めた。

まず本社のリストラは、スタッフ部門におよび、本社費の削減も図られた。
それもあって、ソニーのデジタル化組織の集約は、本社にとって、管理するには荷が重くなり、本社として、大所帯となった開発部門を指導する力も無くなっていたのである。
かくして利益が挙がらないMIPS事業本部は、本社費としてでなく、わずか2年足らずしてまた大きな事業本部の下で育てさせる政策に変換し、各ビジネス事業本部を里親として責任を分散させる制度に戻すことになった。

こうして技術開発も、効率化を求め、見かけの重複を排除し、各事業本部をハードのカテゴリーで分類分離し、短期的な売上と利益の追求指向となった。

しかしこれには、各里親とされた事業本部は、外部からの異物を認識する免疫防衛機能を発現し排除現象を起こしたのである。
これは、いわば日本人がもっている縄文時代からの精神風土に基づくものかも知れない。大きな自然災害に耐えるため、誰でも良いのでリーダを決め・・・それは一番年長者のような・・・議論している暇を惜しんで皆で対抗するための、自分を押し殺してもいわば和を乱さず、組織のために義のためにロールプレイイングすること。
または、鎌倉時代からの領土を死守するために、家系を重んじる風土や伝統がもたらした思考法であったかも知れない。
いずれにしても、よそ者の行動を侵入しようとする攻撃と見なし、敏感に反応して反撃態勢に移る、いわば 「受動的反撃性症候群」を発現するのである。
日本の大企業から、イノベ―ションは生まれないと言われるゆえんであろう。

MSX Gp.はアイワから本社に帰り咲いた鹿井専務の芝浦工場の音響事業本部への里帰りであった。
また、ニューメディアの大崎工場のGp.は、MIPS時代に厚木に異動しなかったのが幸いし、トリニトロンが映像機器からコンピュータ用の画像機器に成長するのと共に過ごすことになった。
ただ、元の事業部が無かったOAやMCのGP.は、それぞれ、行き場を自分達で探さなくてはならなかった。


2)サウディ・アラビア・プロジェクトでの井深の怒り

こうした状況になることを、井深は感じ取っていたに違いない。アメリカから一転その矛先を、アフリカのアラブに、アラビア語のワープロへの進展を準備していたのである。

当時、井深に代わってソニーの技術開発の目標を策定するための技術企画部は、イランのパーレビ王朝に向け語学教育システムの商談を進めていた。
一方、井深はサウディ国王とある王位継承順位を持つ王子と、キングサウディ・ユニバーシティの総長や経済計画大臣とも話を進めていたのである。アラビア語を近代化し、文書のデジタル化とコンピュータ化をしようと。

驚いたのは、旧OA事業部を預かっていた副本部長の出井伸之であった。そして、彼は、ソフトエンジニアの若者達のことを考えていた。
その背景には、彼がMIPSを預かって間もなく、優秀な二人の係長代理が、係長への昇進試験を拒んだことがあった。

一人は、トリニトロンのガラスバルブの開発で、多分世界で初めて実際に有限要素法のプロがラムを開発し、またS/35のワープロのデータ構造の開発を担当した石原であった。
もう一人は、ソニーのCP/MマシンのMSCで、これも世界初のビデオ信号とテキスト信号をオーバーレイで同時表示を実現する仕様を開発していた係長代理であった。
それは、テレビ放送用画面に文字のテロップを編集してオーバレイするシステムで、日本はもとより、アメリカ、中国、ロシアそしてアラビア語までのシステムを開発し、世界の放送局の70%のシェアを、わずか数人で、それも2年足らずで獲得した服部善治である。

出井は、二人に、上級マネジメントへの申請用紙の下書きまでしたが、彼らは、出井の好意に感謝すつつも、翻意しなかったのである。
二人に共通していたのは、トリニトロンで功績があった大越明男に対する会社の対処の仕方に、エンジニアに対する会社の態度を見ていたのである。

こうした若いエンジニア達の思いを、ある企画担当者は、盛田に直接届ける努力を2度ほどトライした。盛田は、その話を聞いて、メモを小さな紙きれに書いて秘書に渡した。
やがて大越は新しく設けられた 「技師長」 の階段を昇ることになったが、自分専用のパソコンを買う権限もなく、昔の部下の課長に頼む始末であった。そして、役員にもならず、名ばかりの顧問職に付き、退職して行ったのである。彼らは、それを見ていたのである。

出井は、こうした、若いソフト・ウエアのエンジニア達を、アルコールも飲めない、女性の顔も見られない、雨も降らない乾いた砂漠の真ん中のリアドという街に、5年間も送ることを決心できなかったのである。
出井は、サウディに送るミッションの中の企画担当に、”このミッションインポッシブルである”ことを暗示するように、こっそりと示唆していた。こうして、ミッションがサウディのリアドで調査に付いた中に、裏切り者がもぐり込んでいたのである。
ただ、ミッションも、サウディですでに、IBMのWTOが多言語対応のIBM PC/XTでのアプローチの影を見たとその筋からの報告を聴いていた。

アラビア語は、日本の平仮名と同じく、文字と文字がつながっっている。また右から左へと書くのと、次の文字の開始点の上下4段に向けて前の文字の形が変化するのである。
そして、彼らは、葦の茎を斜めにそぎ切って刻みを細かく入れた独特の筆記用具を使ったキャリグラファーが大学等に研修道場を構えて、職人を育成しているのを見学した。
彼らは、建物の内装や外装等に文字を縦横斜めに連ね書きして、装飾デザインを施している日本でいえば、仏像を彫る仏師のような、宗教的芸術家という趣でもあった。

まず、アラビア語の文章の文字を切り離し、文字のフォントをそれぞれ4種類造る必要がある。多分、公用語と日常の用語や文芸用や、建物の壁等を荘厳するための、ひょっとするとの古いメソポタミヤ語やペルシャ語等の用途に応じた字体が要求されるかも知れない。
こうなると、トルコのケマルパシャのような、サウジの文明改革のお手伝いをすることになる。

ソニーとのコンタクト・パーソンの王子は若い、スタンフォード大学のコンピュータ・サイエンスの修士を出た才気あふれ、スマートでアグレッシブな青年だった。
その王子のパレスで、木の実をつまんで美味しいコーヒーやティーを楽しんだり、国家天下を論じる雑談等をして、1週間以上を過ごしていたが、企画担当が積算した概略予算は、自ずと大きくなった。

ソニーで鬼才の一人と言われるほど世界中の貴賓との繋がりを持っていた ”石田の兄い”と言われた男が、その額に2倍の掛け目を付けたのである。
結果、ソニーの売上に匹敵する規模となったのである。
彼は、単にソニーだけでなく、ユネスコからの支援までの腹案を持って瀬踏みしていたのであったが、サウディの計画担当事務次官のイエメン人から、「ソニーは、そのような巨額のプロジェクトの管理能力があるのか?」 と問い掛けられた場面もあった。

井深は、この反逆に、珍しく身を震わせて怒り狂った。
「ソニーは、どこかで道を間違えつつある。例えば、ウオークマンの成功である。もし技術開発無しで、ただ小さくすれば良いと思い込んだらおかしくなる。ヒトがほんとうに求めているものに我々が応えてあげられなかったら何のために仕事をしていることになるのか。だから私は、ジャンボトロンを造った」 と。

岩間社長の次の世代への交代の時間が迫っていた。隣りに座っていた森園は、身じろぎすることもできなかった。

森園は、それまでOA事業部の係長以上と何回は会議や飲み会を重ねた。そして彼は、飲み会でもメモを取りを続けた。
しかし、ソニーの利益頭になりつつあった情報機器事業本部の副本部長クラスや管理官僚達には、自分達がOAの里親となって養っているという自負が強かった。

逆に、OAの優秀なソフトの若手は、デジタル化時代の技術も理解できずにいまのソニーを創ったトリニトロンも、今の情報機器本部のUマチックを押し上げたベータマックスも、我々の成果のおかげであることも理解していないで、もっともらしいお説教を垂れる幹部や、管理部のスタッフが気に食わなかった。
酒の席でも、そうした不満が噴出し、修羅場を演じたこともあったのである。

ただ、後に彼らは、ソニーを卒業してから、サウジプロジェクトをやった方が楽しかったかも知れない、と語ることもあった。
そのころ、ソニーでは、岩間が病に倒れ、このプロジェクトは、沙汰やみになった。


3)NEWSプロジェクトへソフト・エンジニアは避難した

問題は、世界を相手に戦ったソニー最強のソフト・エンジニア達であった。
そして、白黒ではあったが、フルページのビットマップ・ディスプレイも、見たままで編集ができ、それがアウトプットに繋がるキー・デバイスで、アメリカのサーバの雄であるサンマイクロ等も垂涎の的の開発済の資産であった。

これに、目を付けたのが、土井忠利であった。嵯峨根や石原忠夫等は、年長の土井がまとめることになった。そして、嵯峨根が育てたソフト・エンジニア達を中心に、ユニックスを使ったワークステーションのビジネスを展開したのである。

しかし、土井にプロジェクトへの協力を要請されたある企画スタッフは、直接には協力出来ないと断りを入れていた。ただそのプロジェクトには加わらなかったが、彼は、スタンフォードのUNIXを紹介した。

ただ、ワークステーションでは、データ解析ソフトは、死命を制する。
土井は、これを頼みとし、アメリカのSASのインステチュートを訪れCEOのグッドナイトと合った時、彼は、「グッドモニング、Mr.グッドナイト」と手を伸ばした。
SASは、言わずと知れた統計ソフトの一番豊富なライブラリーで帝国を築き、かれは、最も統計学で稼いだ男と言われていたのである。
当時SASは、急速に勢いづいてきたパソコン向けにライブラリーを開発すべきかに悩んでいた時期に当る。かくして、土井のソフト・アライアンスの仲間作りは失敗に終わった。

しかし、SASとの提携に失敗したとのことを聴いた企画スタッフだった男は、「これはワークステーションとしては苦しい闘いになる」と憂慮し、当時彼が構えていたソニーの小さなシンクタンクから、予算を割いて、SASから断られた多変量解析のシフトパッケージの開発をJIP:日本電子計算株式会社に開発を依頼した。
それは、ADOLとして、NEWSに実装された。

これを切っ掛けに、JIPはNEWSの販売代理店となった。
NEWESは、その日本電子計算を代理店とし、そこから直販に近い体制を敷いた。
その用途は、マーケッティングや証券業界など、JIPの強い金融業界と、大学関係であった。
例えば、JIPから武蔵工業大学の演習室の全ての机の上に1台づつ売りこむ等の支援をした。
JIPは、多変量解析ソフトを活用して、NEWSの実に、50%以上を販売した。

土井の率いたチームは、スーパーマイクロ事業本部に昇格し、1987年1月、社内から独立したベンチャービジネスの形で開発した 「NEWS(ニューズ)」 を売り出した。

パソコン並みの大きさで、従来のミニコンピューターの性能を持つワークステーションを、95万〜275万円という超低価格で実現した。当時の主流のワークステーションの平均価格は500万円位だった。

当時、日本でも多くのエンジニアに使ってもらえるソフト開発用ワークステーションを作ろうという国家プロジェクトが進行中であり、これは、CAD:Computer Aided Designなど設計を自動化するためのエンジニアリング・ワークステーションとして、ソニーがこれに先駆けた形として注目された。

発売当初から大学等を中心に売れ、最初の量産試作までにかかった4億円の開発費は、わずか2ヵ月で回収した。
ただ、NEWSがいきなり利益を出せたのは、ソニーの特機営業を通さなかったことによる。
特機営業は、問屋では無かったが、17%は掛ったのである。その上、特機代理店には、25%のマージンが掛ったのである。
しかし、インストレーションや、トレーニングやメインテナンス・サービスまでも全ては、JIPが持つことになった。
こうして、NEWSは、JIPとは、運命を共にすることになった。

 しかし、世の中もNEWSに追いつき追い越せと競争は激化する。米サン・マイクロシステムズ社が業界標準の技術を開発して爆発的な強さを発揮していたアメリカでは、NEWSを思うように普及できず、そして、ヨーロッパでの販売も苦労続きであった。

ただ、日本では、情報、通信経路のデジタル化が進む中、服部達が育て嵯峨根Gpが引く継いだSMCー70Gの流れをくむ、NEWSを「VOD(Video On Demand:ユーザの要求により、指定されたビデオ映像をテレビ画面に表示する)システム」、「インターネット・システム」 にサーバとして組み込んで活用していこうというビジネス戦略も積極的に繰り広げられた。
日本初のVODシステムを実用化し、1995年に公民複合施設「アクロス福岡」へ納入した。これは、SMC7000というビデオテロッパーの後継機であった。
ただ、ピーイン入力機能を実装できていたが、中国等への輸出は、ココムによって、妨げられた。

代表的顧客に、ソニーの年金機構があった。その責任者は、ソニーの人事担当の副会長の橋本綱夫であった。
土井からの要請を断った昔の同僚の企画担当は、ソニーの橋本会長と机を挟んでJIPの福島専務と席を並べて青いソニーの制服を着たまま対峙し、席に着いていた。
橋本は、「あれ、あなたは何故そちらに座っているの」と聞いた。「今日は、JIPさんと組んで売り込みに参りました。ソニーの年金管理がNEWSと成れば、勢いが着きますので」
こうして、ソニーは厚労省を説得して、導入を決めたのであった。だだ、こうしたけた繰り戦法は長く続くことは無かった。

土井が選んだスタンフォード型UNIXの凋落とその運命を共にしたのであった。
こうして、NEWSというワークステーションが、また一瞬の花火のように輝いたのである。

しかし、嵯峨根部長のもとで、やがてVAIOに挑戦することになる何人かのソフト・エンジニアのマネージャ達が育って行ったのである。その人材等の遺産は、出井と安藤のもとで、VAIOの主力部隊となって息を吹き返したのである。



4)映像機器のVHSとレーザ・ディスクGp.へ

出井は、ビデオ事業本部長部として、また、芝浦工場に戻った。
その担当は、ベータと共に、VHSもビデオの家庭用デッキをすべてビジネスとすることと、MIPSがら、画像のスヌーピーの長男のSIOSを連れてこれをアメリカのパテント・オフィスに売り込むことであった。

SIOSは、当初、”ピクチャ・プロセッサ”としてDECと組んで企画されたが、テープが持つランダムアクセスに時間が掛ることと、静止画を出すための耐久性に欠けることから、レーザー・ディスクを使ったSIOSで、”ピクチャー・サーチ”という用途を探索しつつ辿りついた売り込み先であった。
このピクチャ・プロセッサは、当初、OA開発部長だった加藤善朗がプロジェクト・マネージャであったが、MIPS発足に伴ってプロジェクト・オーナは、レーザ・ディスクに強い関心があった出井となり、プロジェクト・リーダが井深亮が引き続き担当した。

そして捜し当てたのが、USのPTO:Patent and Trade mark Office (特許庁)用のAPS:Automatic Patent  Search特許情報検索装置であった。
しかし、アメリカの営業部隊は、厚木の情報機器事業本部の管轄で、この入札に疑問を持ったのである。
それは、US.PTOからの条件に、「検索条件を入力してから明細書を写し出すまでのTOT:処理時間を最大1分とする」という要求条件であった。
営業部隊は、「もしそれが取れてしまったら、本当に開発できるだろうか?」 との疑いが開発側に向けられたのである。
その結果、応札はしたものの、付け値は降りるための価格が設定され、結果は、サンマイクロに落とされた。

ただ後に、MIPSが解散となり、出井が芝浦工場で身軽になって、次のPTOからの公募になると、ソニーはレーザ・ディスク・ユニットのハードに限定して応募した。
ちょうど、入札の最後の日の夕方、レーガン大統領が主宰する 「ホワイトハウス・ダンスパーティ」 が開催されることが判り、MIPSからソニー・アメリカに派遣されていた河上正三は、盛田に、商務省長官のマルコム・ボールドリッチ夫妻が見えますと伝えた。

クリス和田と河上は、この競合相手の3Mがミネソタ州にレーザ・ディスクの工場を建設中で、地元の有力議員が商務省にロビー活動をしていることを知って、盛田に伝えたのだった。その晩、盛田は、夫人と親しくダンスを楽しんだ。
そして、その効果があったのか、結果は、その数日後に、ソニーがウイーナとなったのである。
しかし、残念なことに、長官は、その数日後に航空事故で鬼籍に入られた。しかし、その名は、”マルコイム・ボールドリッジ賞”として、アメリカの経営品質を賞揚する賞として長く名を残すことになった。

それは、人に人格があるように、企業にも企業としての品格が求められるといする思想に基づいている。
これは、アメリカのもの造りが日本に遅れを採った理由の一つに、デミング賞というプロダクツのクオリティ・マネジメントの思想とその方法論があったからとして、それを凌ぐ賞を設けたいとしたからと言われる。

逆に、この動きに驚いた日本は、1995年、「日本経営品質賞」を新設した。これは、R&D社長の牛窪一省氏を中心に、日本能率協会等と推進したものである。
出井もまた、牛窪先生から、薫陶を受けた一人である。

もう一言追加するなら、デミングは、苦境に陥った自動車業界を救うため、NBCの番組で、”日本の品質管理を育てた男”として、発掘されたのである。
ただ、彼の唱えたPDCAは、その師のシューハートの逆鱗に触れ、怒ったシューハートは、破門するとしたと言われる。アメリカの品質管理は、ベル研時代のシューハートの”プラン・ドウ・シー:PDCサイクル”を基礎としている。

しかし、「その”A”は、”P”が、いつも正しいかどうかをチェクするべきものであるとして、いつでも設定された”P”を正しいとするサイバネティックスのような、いわば連続カイゼンをするものではありません」、とシューハートを説得したのは、後に慶応大学から武蔵工業大学に移られた坂元平八であった。

ただ、残念ながら、デミング自身が、その両論の間を揺れ動いたが、フォードの再建を任されたとき、また、当時の日本勢の優勢をみて改善型に戻ってしまった。
そして、日本でも「連続カイゼンこそが強みの源泉である」と誤解してしまっているのである。

因みに、アメリカの品質管理学会の会員数は6万人を超えるが、日本では1000人弱の学会が2~3個存在するに過ぎない。そこでは、やはりシューハートのPDCサイクルが、シューハート・メダルと共に、大切にされている。

後日、サンマイクロ社から、「ソニーが既に開発済であったレーザ・ディスクや、NEWSで使っているフルページ・ディスプレイを持っていながら、なぜあんな高価な値段で応札したのか」 と不思議がられた。

ゼネラル・コントラクタは、いわば、日本流でいえば昔の宮大工や船大工の棟梁である。
建築のに関わる一切を施主から請け負い、完成させるまで術全ての役割を果たすのである。

それは、現代的に言えば、契約の全体系を仕切る元締めで、その実現するシステムのアーキテクチャ、下働きをする各専門職のリクルートと編成と工事の手配、作業の工数や材料の調達、そして、設計仕様に表現しきれない品質や品位などをシンボルで示し、その掛かりの資金調達の体系などの全てをデザインし、施主と約束し、一切のリスクを含め責務を一身に担うのである。

こうした社会的システムにおけるビジネスは、3~4種の主体から構成される。
まず、施主と言われるシステムのオーナである。次に、施主から全てを任されるシステムの開発に関するゼネラル・コントラクタとかデベロッパーといわれる。いわゆる総請け人である。
そして、最後に、それが完成した後を受け運用するシステム・オペレータである。
時に、システムが完成するまで、施主に替わって監理を請け負う監理人を置くこともある。
ゼネコンは、日本でいうゼネラル・コンストラクタではなく、ゼネラル・コントラクタで、システムの構想、システムを構成する部分の切り分けと順序付けと発注、そしてファイナンシングまで含むのである。

ソニーは、こうした大きなゼネコンというB2Pのビジネスを開発したことも、経験も無かったのである。
ときに、アメリカの特許庁や航空管制システム等は、IBMがその役割をもち、ソニーはその一部分の公募にのみ参加していたのである。
ただ、これは、映画作りでのプロデューサや、それを支えるスタジオの機能と良く似ていたのである。