序編 プロローグ

すべてのビジネスはすべてイノベーションとなってくる


1章
ヒトは仕事でコミュニティを豊かにする


1◇生活環境と価値観で時代を区切ってみる

ヒトやコミュニティや社会はすべて、働いて余る価値を巡るゲームであると考えてみたい。
虫や魚や植物ですら、資源の余剰を糧に、生活をし、コミュニティを進化させているように見える。その生活する姿は、ヒトが何等かの仕事を通じて環境に働きかけ、より安心でより快適で豊かな生活を求めるゲームに参加し、また暮らしを楽しんでいるように見える。
このような環境の資源やその空間的にまたは時間的に分散した余剰資源の棲み分けで進化論を説いた今西錦司に学ぶところが多いように思われる。[1.1]

時に、いま、2020東京オリンピックと新型コロナウイルスといういっけん異なったイベント、異なった事象の間でも、ゲームの真最中であるとも考えられる。
ただ、歴史的にはオリンピック・ゲームは、本物の戦をエンターテインメントに代替えしたもので、ギリシャのトロイ戦争の闘いの後、アキレスが友の死を慰めるために、戦車競走、拳闘競技、徒競走、槍試合、鉄塊投げ、弓競技、最後に槍投までが行われたのが発祥と言われる。[1.2]
また、近代オリンピックは、まさに戦争と平和との闘いであったとも言われるが、一体今回のオリンピックは、何との闘いのゲームなのであろうか?

この異った次元、異なった世界の闘いは、人びとにとっても、選手やそれを見たい観客と、それに対し税金をコロナ対策に使うべきとする派に分れて見方が異なっている。またビジネスの世界では、数十億ドルを出したNBC等のテレビや番組宣伝をしてきたマスコミに対し、関係する産業界や医療関係者等の綱引きがある。さらに政治のスクリーンにも、この複雑なゲームが時々刻々とプロジェクションマッピングされ、闘いが演じられている。

例えば、民主的なEU圏と強権的な中国やシンガポール等の政治制度の闘いの様相もあるし、自由でオープンな交易で世界の豊かさを追求するグローバル経済対自国中心で閉鎖的国家主義的経済の闘いの様相もある。従来、立法、行政、司法とこれをチェックしてきた第4極だったメディアも、こうしたゲームプレイヤーの中に、マスメディア対SNS等の新のメディアがゲームに巻き込まれているので、なんともめまぐるしい複雑な様相を呈している。
さて、こうした虚実入り乱れる複雑な世界に生きる我々は、一体どのような時代を生きているのであろうか?

この[図1.1]は、ヒトや社会が、どのような環境の中で、どのような社会的余剰価値を、めぐって生活しようとしているかを説明するためのものである。
ここで、社会的余剰価値とは社会を構成するメンバーがより豊かになるための時間や資本などの自由裁量し利用できる資源の余裕のことである。
図1.1
[図1.1]

人びとやコミュニティの行動を大きく規定する価値観を縦軸で示し、細かく規定する横軸は環境に対する意味の感度を示そうとしている。
縦軸の価値観は、意識としてあるいは行動に対する人生資源の配分の優先順位である。横軸は、環境に対して反射的に行動するいわば潜在的な意味志向の感度である。

コミュニティを、第Ⅰ世代の古代から、第Ⅱ世代の中世、第Ⅲ世代の近現代、そしてポストモダンの第Ⅳ世代と分けて考えるとする。

豊かさと安心を求める価値観は、人びとが蓄えた余剰価値に大きく縛られる。蓄えた価値を守ろうとする力が、有る意味では稼ごうとする力よりも大きくなりがちだからである。

いま、豊かさの価値観は、物質資産から記号の資産へ回帰しようとしている。
古代は言葉などのスピリチャルで記号的な資産であったものが、中世から近現代は、モノやエネルギー等の物質的で見えるもの、数えられるものに支配されてきた。GDPや企業の資産管理表(バランスシート)等がその例である。しかし再び記号への時代を迎えようとしているように思われる。

一方、闘い、生活し休息する場としての環境と特にその変化は、それがたとえ僅かであっても、人びとの行動にトリガーを掛け、行動にモチベーションを起こさせる。これは特に動物には顕著で植物でも、環境やその変化に対する適応力は進化の重要な要因の一つである。
古代、中世は、自然の中で、時に自然と闘い、狩猟や放牧や栽培等で自然の恵みを受けて仕事や生活をしていた。それが、工業化が進み分業が進んだ近現代には、商業化や都市化が進み、人工環境化が進んだ。
働き闘う場と休息し暮らす場は、都市や建築物の中や、ヴァーチャルなメディアに囲まれた環境となった。

こうして、第Ⅳ世代は、価値観としては、物質やエネルギーから離れ再び記号の価値へ、意味を感じる環境情報としては、人工物から再び自然へ回帰しようとしているように思われる。
価値観は、人びとのゆっくりとした行動のトレンドを規定するが、環境情報は、人びとの反射的な行動を誘いだす。
新型コロナ事象やオリンピックが、環境情報であるメディアにも深く関わっていることで、人びとの反応行動が、刻々と揺さぶられる原因ともなっている。

さて、こうした社会的余剰を巡るいわばゲームのような状態は、ヒトやビジネスの資源の奪い合いだけのいわば競争戦略だけでなく、社会やコミュニティを豊かにするいわば価値の創造戦略としてのイノベーション戦略こそが本質的で重要になってくる。
イノベーションでは、他のヒトや他のコミュニティから直接価値資源を奪う目先を争うよりも、社会全体としての社会的総余剰価値を高める側面があるからである。

もし、社会を構成するメンバーの誰一人の価値を損なうことなく、他の誰かの価値を上げる方策があれば、それこそが絶対的な社会的余剰の向上策ということができよう。
しかしイノベーションと言えども、必ずしも全面的な社会的余剰の向上を保証するものばかりではないが、それに接近する方策である。
それは、続く編でも採り挙げて行くが、あるイノベ―ション領域のグランドスケープを切り取ったとき、そのステークホダのA,.B,Cの余剰の単なる合計を最大化するというものではないからである。

さて、失われた10年が20年となり、30年目を迎えた日本ではあるが、どうやらこの先50年もあながちあり得ないことでもなさそうな気配である。
人・モノ・コトを繋ぐ市場と交換手段は、分散され再統合され、新しい流れの形にどんどん進化する。
しかし、組織・制度等は、利己的 文化遺伝子:Meme に支配され、目的を裏切り、エントロピーを縮退させ特異事象を発現している。

日本が1990年株価4万円に迫まりGDP500兆円となって以来、[図1.2]で見るように、2018年まで横ばいだった。この間中国は34倍、USは4倍、全世界も3.7倍となった。




図1.2
[図1.2]

一方、企業の設立時期と2000年現在の企業価値を時価総額で見てみよう[図1.3]。横軸は、企業の設立年代で、大きな2つの楕円で囲んだところは左が1900年~1950年まで、右の楕円で囲んだところは1950年から2010年である。

棒グラフは、それらの時期に設立した企業数で、濃い青が日本、薄い青がUSである。
横軸より下の円の大キサは、この日経新聞の記事が書かれたH25年1月の各企業の時価総額である。


図1.3
[図1.3]

左の楕円の50年間では日本の企業の設立が活発で、USの企業が少ないことがわかるが、企業価値で見ても、その差はもっと大きい、しかし右の50年になると、全く逆転する。
USは、2080年代からまさにGAFAと呼ばれる工場を持たない企業の台頭である。日本が”モノ作り大国日本”を掲げたのが2000年であったことを思い出す必要がある。

この最近50年間で、コア技術に基ずくコア産業を起こしてこなかった日本の現状が、次の21世紀にはじまる50年間でどのような飛躍を遂げられるかが、いま問われている。
日本の大企業から、イノベーションは生まれない、とする命題は、しかしUSにも当てはまっている現象でもある。しかし、2000年になってモノ作り技術大国の旗を掲げた日本は何所に向かおうとしているのだろうか。

この様な新しい世代を迎えた社会で、どのようにしたらイノベーションと言うような現象を起こすことができるだろうか?
 いま、現実をデータで踏まえ、向かうべき姿を意-Imaging し、実行するためのツールとスキルが求められている。

そのためには、強権国家を目指している中国やUSのAIツール競争ゲームから、すこし身を引いたスタンスで、いわばグランド・スケープを見てみたい気がする。
それは、ビジネスな関わる全ての人々が使える、セルフサービス・ビジネス・インテリジェンスへ、さらにプロジェクト形の”体験型ソーシャルBI”こそが活躍できる場が必要なのではないだろうか?


2◇コミュニティの機能をゲームの観点で捉え直す

時代を特徴付ける社会の様相は、いわば闘いのゲームの側面が判りやすいように思われる。そもそも民族の歴史は、覇権を争った英雄や国家のペルソナで語り継がれてきたから。

西欧では、古来狩猟民族特有の他部族や商圏の闘いの歴史がその特徴であったように思われる。
一方、東のモンスーン地帯の農耕民族は、自然との闘いがその特徴であったように思われる。こうした民族のコミュニティ文化の様相は、イノベーション活動において、どのような特長をもたらすのであろうか? 
ただ、コミュニティは、如何なる民族でも3種の機能を備えている。いわば「M:闘う機能」と「Q:守る機能」と「J:統合する機能」等3機能である。
この原型は、ペルシャ・インド語族系の元になっているギリシャ神話、ローマ神話やゲルマン神話等の地中海からヨーロッパでこの構造が発見されている。
神話学者のジョルジュ・デメジルは、ローマ神話と北欧ゲルマン神話がこの神々の3機能のフレームがあることを発見した。
弟子の内田敦彦は、ローマ神話とギリシャ神話が同じ構造をもっていることを発見し、さらに、日本神話と朝鮮神話も同じ構造であることを発見した。中国以外のポリネシアやアメリカ大陸の発見には、大林太郎が貢献している。[1.3]

図1.4
[図1.4]

ただ、中国ではこうした構造の発見は無いとされているが、雲南省の白族には、3道茶という民族舞踊があって観光客に披露されている。これは、世阿弥の老体、軍体、女体とよく似た構造の舞であるが、まだ神話学会への発表されていないようである。

世阿弥は、花鏡の中で、体と用として、”花は体、香りは用”として、また”音曲は体、舞は用”として、舞台の花を体と用の融合したものとして説いている。[1.4]
「分類語彙表」を編んだ国立国語研究所長の西尾実は、日本語を9万6千語を集め、体の類、用の類、相の類として分類ししている。これは禅宗の体様相の三位一体と照合関係にある。[1.5]

こうした神話の3機能論は、国家や行政やコミュニティだけでなく。また能や生け花や茶道だけでない。
ソニーの第5代の会長を務めた出井伸之も、役員体制を組むのにこの構造を意識していた。またネスレのCMのコミュニケーション体系にも使われていた。プロジェクトの場のフレームやチームビルディングにもこの神々の3種の機能で構成されるのが自然であろう。

これをコミュニティの条件とするならば、
1)制度(J)信義の基盤、J: Jupiter
2)仕事(M)闘いの基盤,M: Marth
3)生活(Q)安心の基盤、Q: Quirinius
は、ローマ帝国を開いた初代から3代の皇帝の果たした機能であると考えることができる。因みに、この3機能のシーケンスの発見も吉田敦彦に依るものである。

マイケルポータを中心として、企業の競争戦略論が流行した。これは、まさに弱肉強食の狩猟民族型の生存競争論であって、新しい価値を創出するという視点が薄かったように思われる。
では、農耕民族型の価値創造のイノベーションには、どのような得失があるのだろうか?
また、日本らしいイノベーション・プロジェクトのマネジメントや、イノベーションへの取り組みの特徴には、どのようなものになるのであろうか?


3◇時代はデータとデータ・パティシエを求めている

“古代は徳で闘い、昔は武器で闘ったが、昨今は、気力で闘っている”、これはB.C.300年の韓非子の言葉である。[1.6]

第Ⅰ世代は精神的権威の言葉による闘い、第Ⅱ世代が富を得る土地を巡る武器による闘い、第Ⅲ世代が物質とエネルギーを巡る産業のマネーによる闘いだったとすると、第Ⅳ世代は、何を巡って何によってする闘いのゲームが繰り広げられるだろうか?

アメリカでは、今世紀もっともセクシーな職業は”データ・サイエンティスト”であると言われている.ビッグ・データがあふれ、お金や石油に代わってデータが資本と燃料となる時代とも言われている.
 中国政府は、2020年までにAIで米国と肩を並べ2030には世界のAI産業を支配すると長期計画を発表した。
ロシアの大統領は、「誰であれ、AIの分野でリーダになったものが世界の指導者になる」と語ったと伝えられる.

 しかし、AIには、データを燃料とし、これを分析するエンジンが必要で、このエンジンを動かして使うヒト、そうしたスキルを持ったヒトが必要となる.日本でも、2020年には、AI人材が5万人不足すると言われ、2030までには50万人が必要と言われる.
AIにはマシン・ラーニングとしてのコンピュータを働かすICTの知識も関係する。しかしデータ分析の知識とスキルは絶対に必要で、これを欠くことはできない.

ただ日本では、理工系でICTに関する学部や学科の無い大学ほとんどないが、データ分析に関する学部や学科を持った大学は、極めて少ない.
これは、いわゆる先進国と言われる中でも非常に珍しい。韓国では50校、中国では150校あり、USやインドでは、1000校以上あるに違いない.

ようやく日本でも、2015年滋賀大学、2017年は横浜市立大学等が名乗りを挙げ、さらに国立大学も10校位が準備を進めているが、今から学生や大学院生を育て、実務の応用経験を持つ社会人を育てるには、10年以上は掛かる.
経産省も「データ・パティシエ」を支援し始めている.原料のデータが有っても料理人が居なくては、食べることができない.

ただ、日本の応用統計学が実社会で広く使われるようになったのは、戦後、統計的品質管理と言われた分野だった.
当時、中学卒の工員やトランジスタ・ガールと呼ばれた作業員達が、現場の品質改善のテーマを見つけ、工夫や実験をしてデータを採り、QCの7つ道具と言われたデータ分析法を使ってチームで議論をし、社内や全国のQC大会等の場で、堂々とプレゼンをしていた.
いわゆる品質管理のサークル活動と言われた、ほぼ自主的な活動だったが、それが、日本のデータ・リテラシーが最も高かった時期では無かったのではなかろうか?そして、それがメイド・イン・ジャパンのブランドに繋がって行ったように思われる.

一方、USでは、抜取検査でもMIL STDとして、軍や国やの機関や大学や民間のベル研等が、応用統計の研究を推進した。
例えば1943年に発表されたA. Waldの逐次抜取検査方式は、サンプル数が少なく、効率が抜群で国家機密とされ、日本では終戦までその理論を知ることもできなかった.

しかし、戦後には、応用統計は、製造の現場の若者達が、データ分析の7つ道具等を使いこなし、やがて1985年には、日米の産業力は完全に逆転することになった.戦後の日本の組立て産業は、カメラ、時計、オルゴール、顕微鏡、自転車、ミシンなど、すべて人力で動くメカニズムの精密機械だったと言える.その基礎技術は、部品の互換性を保証する”公差”の標準規格で、JIS(日本工業規格)だった.これも、データ分析に基づく技術で、国の産業の基礎技術は、標準化技術とデータ分析技術と言っても良いだろう.

実は、AIには、ICTとデータ技術と標準化技術の三位一体の技術が必要である.
ただ、日本では、この標準化に関する研究開発や教育を行う大学が1校も無かったことが、現在の技術力の低下に繋がっていると言えるのではなかろうか.
アメリカには、少なくても1000近い標準化技術に関する学部や学科を持つ大学が存在すると思わる。そして、NISTを中心とした公的な標準化の研究と推進機関が、いくつもある。しかし、日本にあった工業技術院は、1980年以降、解体されて久しい。

ビジネスにおけるイノベーションのパースぺクティブにおいて、品質とコストと量に関わるモノゴトの標準仕様と標準化活動のデータは、欠くことはできない。
品質管理という工学分野を創出したシューハートは、管理された品質を生み出し、その安定した推測が可能となるためには、標準化がその基盤となることを、部品の精密工学から進化した「通り止まりゲージ」から始まった公差や許容差や、それをロットの特性値の分散の安定性の公差や許容差の概念にまで拡張したのだった。

シューハートは、社会の品質と言ったものは、「標準化する者」、「標準を守る者」、そして「標準によって判断する者」、それも選ばれし特別な者が、それぞれ自立性を持った活動ができなければならない、とシューハートは指摘している。
図8-5

 [図8-5]

標準によって判断する意思決定者は、その結果の責務を企業や社会から負託され責任を追うことができる者でなければならないと考えていたからであろう。そして、その根底には、一定のバラツキを持ったデータの調査・採取と分析と推論が必要で、判断には過誤があるあるとも。
彼は、個々のデータは全て確率的なもので絶対ではなく、合理的な判断は、個々の部品を通り・止まりゲージのように公差的な尺度ゲージを用意すべきであるとし、標準・規範・法等もそうした公差的な技術的思想が必要だと考えていた。
当然ながら、標準化する者もその根拠として、データの採取と分析が必要であるとしている。[1.7]

しかし、この図では、あたかも民主主義の3権分離モデルの様に見えるが、この仕組を外から眺める第4の視点が必要であると思われるが、それは、第5編のイノベーションのマネジメント技術論の辺りで触れたい。


4◇中動態でイノベーションを考える

イノベーションは、闘ってかち取るものなのかどうかを考えたい。
それには、シュンペータが言うような、外部とは関係なく内部から出てくる現象であるとすると、シューハートの標準化思想と重なるのだが、ここでは日本的なイノベーションの有り様を探りたい。[1.8]

中動態というテキストの構文は、古代ギリシャ語にあって、現在、日本語とサンスクリット語に残っていると言われる。
まず、中動態という構文が最初に生まれ、やがて能動態を生みややがて受動態という構文が生まれ、それらが西洋では主流となって行った歴史があるようである.[1.9]

「皆さま、山手線のドアが閉まります」という新宿駅のフォームのアナウンスに、我々はあまり違和感を覚えない。しかし、ドアが勝手にしまっている訳ではない。通常アクセルを踏み込まない限り自動車といえども急発進はしない。[1.10]
「私はあなたを愛している」は、中動態構文では、「あなたの愛が私の心にやってきている」となるそうである。もし、「私の愛もあなたの心に行って留まって」来れば、ハッピーエンドになる。

言うまでもなく能動態の主役は動詞であり、それもいわゆる他動詞である.しかし中動態の主役は、名詞だったという.事物のあれこれを区別する指示作用である.古代インドのサンスクリットから来た仏典に、”事事無碍”という言葉がある.事物は一つ一つが区別されお互いに妨げになっていないという.[1.11]

ギリシャ文明がペルシャ等のアラビア語となりやがてローマのラテン語になってゲルマン語から英語やフランス語になり、ルネッサンスに花開く過程で、この中動態は、衰退して行ったと言われる.
ローマ帝国が、キリスト教皇が支配する時代を迎え、人びとがそれぞれ神との1対1の契約者として対峙したとき、他動詞が生まれ、ラテン語の能動態と受動態が支配的になったとも考えられる。

12世紀に、西ユーロッパのアデラートとロバートも2人の学者が、スペインでユダヤ人やムスリムの学者たちがイスラムが支配したコルドバ等の都市で学んだ。彼らは、古代ギリシャ文化と当代のイスラーム文化が生んだ偉大な著作のラテン語訳をキリスト教社会にたらした。
その中には、プラトンやプトレマイオスやイブン・シーナや優れたイスラームの医者や哲学者達も著作等が含まれており、13世紀には、アリストテレスの全著作のラテン語訳も流れ込んできた。
西欧の蛮族の子孫達は、この時初めてスピリチャルな神学と哲学で説明されていた世界観を、異教徒達が構築した精密な知識と高度に洗練された、倫理学、政治学、物理学、形而上学、気象学、生物学に至るまでの解釈に取り組まざるを得なくなった。[1.12]

こうしてラテン語になったことで、いわゆるラテン系と言われるイタリック語派のフランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア等に、またゲルマン語派といわれる、英語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語等に広まって行った。
そして、印刷技術によって、西ユーロッパに知識が広がり、ルネッサンスに繋がった。

また、数え上げられる離散的で正の数字から、計測し難い連続性と均質性が仮定される、度量衡の計測ができるようになる。
度は「長さ」および「さし(ものさし)」、量は「体積」および「枡(升、ます)」、衡は「質量」および「秤(はかり)」で、計量値と言われる。
さらに温度や固さや時間等の均一性や汎用性や原点の設定が難しい特性の数量化が発明された。これらは、イメージするのが難しく、従って共通の言葉にし難い事象であった。「1.13」

時間の計測方やそのポータビリティが実現することで、時間当たりの移動の速さや力やエネルギー等の近代的な連続的な高度な数値が発明された。

この様に、遅れた西ゴート族から始まったフランク王国が、やがて各種の数量的規準言語を発明し、用法を開発し、スキルを習得し、近代への道を切り拓くことになった要因の一つに、A.W.クロスビーは、西洋が引き継いだヘブライズムとヘレニズムの引き裂かれた相克の宿命とも言うべきものではないかとしている。またそれは、無常の具象ではなく変わらぬ不滅な理と、主観とは独立して実在する事物との思想的ゲームのプラトンとアリストテレスの相克とも重なったのではないか。

暦の発明の歴史も、原点をどこに取るか、その周期性をどうとるかで、いまだに長いゲームが続いている。イスラームでは、大切なラマダンの時季は、毎年西暦では変わっているが、中国の春節も毎年変わり、旧暦とも呼ばれるが、彼らは別に古いとは感じていないだろう。[1.11]

ヒトの心と自然の原理を分離するデカルトの”科学”が支配的になると、今度は、ヒトが自然と対峙し、何事かを起こす技術する言葉として、能動態構文がいわゆる文明を支配する言葉になったのではなかろうか?[1.14]
現に、特許の明細書を書くときは、徹底的に受動態や中動態の表現は避けなければ通用しない。これは、日本人にとっては、かなり苦痛な作業である。

逆に言えば、日本人は、機械や対象のデータ等に成り代わって、その立場や状態に我が身を置き換えあたかも部品の状態になり代わってその気分さえ感じることができさえする。
そうすると、目的を共有するプロジェクトでは、さまざまな専門家が、その問題に対し、いわば体験として共有し、いわば分散した体験的集合知を発揮するメカニズムが働きだす場となる。
これは、相互主観参入とも言われる現象であるが、鳥羽僧正以来の日本特有のアニミズムの包摂性豊かなアニメの文化かも知れない。

井深大の「モノの心は、ヒトの心である」という命題こそ、まさにイノベーションが成就した瞬間であるといえよう。
イノベーションとは、一見不可能な、しかし「明確でスジの良い強い目標」が実現されることである。しかし、イノベーションは、山の木の葉に雨が降りそれが滴って流れて川になるように、やはり起こるべくして、起こるべき時に、起こるべき場で起こる現象のように思われる。
「イノベーションは、いまこの状態と、すぐ未来にある好ましい状態とが出合う時、体験的集合知が働くプロジェクトの場で生まれる」、と現象を説明できるように思われるがいかがであろうか。

ただ、日本では、イノベーションを阻害するいわば、組織の生理学でも説明できる大きな壁がある。[1.15]
これは、いわゆる「受動態的攻撃症候群」とでも表現できる現象である。

企業は本来、環境の変化に対応し、新しい価値を創造するべきである。しかし、通常の製造や販売やそうした部門を抱える事業部は、自分の持っている設備、技術、ノウハウ、人材、パートナ、ルール等の資源がある。また、目の前に大切なクライアントが居り、そこに提供できるプロダクツやサービスがある。
全く新しいプロダクツやサービスは、リスクがある。もし、失敗すれば、その全てに被害が及ぶ。その被害は、関係者はもちろんその家族にまで及ぶ。いま、ビジネスになっている事実があり、明日も同じ成果を期待できる。もし少しでも改善でき、頑張れば、まず、さらに良い成果が得られるだろう。もし、そこに新しいビジネス勢力が登場すれば、それは、自分たちが将来進むビジネス領域に対する侵害となる。
こうして、まさに連続カイゼンの小さなPDCAのワナに嵌りこんで、環境の変化に取り残されることになる。
つまり、攻撃されたと思い込み、自動的に反撃する姿勢をとることである。

こうしたトップ・オブ・ザ・ラインの責任感の強い事業部長やそれを支えるスタッフにとってばかりでなく、本社部門の総務、財務、法務、業務などの専門スタッフもまた、新しいビジネス領域への進出には、本能的な警戒感をもち、あれやこれやのリスク探索専門知識を動員することで、忠誠を誓うアリバイ作りに励むことになる。
これをいわば、母親が母体を守って胎児を厄介者とする”つわり現象”と説明する説もある。
また、ロバート・B.ライシュの、自分の組織のエゴで貫く”代理人の暴走現象”からも説明できるように思われる。[1.16]

あらゆる社会・コミュニティ・組織の基礎は、信義である。
特に、日本の社会の特徴は、和であり、それは、同心円の輪の構造である。グレゴリー・クラークは、「日本は外寇には、天皇の元に直ぐまとまって秩序を作った」として、元寇の役や明治維新を挙げている。[1.17]
公への義を忖度し、私の情を殺すを美とし、歌舞伎や浄瑠璃で近松門左衛門の忠臣蔵は、今でも人気である。

図8-2
[図8-2]

こうしたビューロクラシ―が、イノベーションの一番の敵であることを、最も嫌い、警戒を崩さなかったのは、井深大であった。

だが、井深や盛田や岩間等のソニー歴代の社長達は、いずれも責任感が強かった部下たちの反撃にあって、いくつもの手痛い敗北を喫している。
安倍首相も、「私は、診療医が必要と認めた場合は、コロナのCPR検査を、受けられるようにして頂きたいと、毎日厚労省に申しあげています」と、2020年3月末に国会で述べている。
ヒトが、ヒトがそのと思ううした思いに少しでも応えられることを目指しヒトがし整理し常にものである
従来一方はてヒトは自分のたりヒト
というを抽出し計算することを示しているきて“”するしたりする連環データ分析というエンジン、として実現できる世界へご案内したい。また、それらのそれらを棚卸し、:time,決済などの: moneyや、ビジネスツールとしてのメディア等れらのしておくそれは、仕事や組織やその管理等の活動形態自体さえも整理しておく必要がある。扱う対象も、単なるモノだけではなく、コトに関するあらゆる事象やその属性に関するデータを対象になることをいみしている。

ちょっと、データ分析と直接関係ないと思われるかもしれないけれど、お付き合いを頂ければ、幸いです。





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