序編 プロローグ

ビジネスはすべてイノベーションとなる



2章
仕事はヒトと環境の対話である
1◇中動態構文から仕事を考える

◇ 西欧では、仕事は罰として神がヒトに与えた苦役であるとされている。
一方、日本では、神が自らの体を投げ出してヒトに与えた5穀の自然の恵みに感謝しそれを頂く作法とされる。[2.1]

神話が無い、いわば人格モデル論とも言うべき中国では、孔子は、ヒトがヒトを思いやる”仁”を最高の規範であるとし、それを実践するやり方やあり方等の作法が”礼”であるとしている。[2.2]
これに対比されるべき墨子は、技術者集団を「兼愛交利」とした。兼愛は、ヒトが己の利だけを求めると世は乱れ戦が起こるとし、自分と同じように他人も愛するべきとした。交利は、お互いに愛すれば共に相手に利益をもたらす、とした。[2.3]

彼らの思想の抹殺した法家の韓非や李斯が、法とその強制権で官僚制度を確立し、中国初の帝国「秦」を建てた。
儒教は倫理と礼で説き、墨子は愛と利を技術で実践し、法家は法と制度と権力で組織を統治した。[2.4]

残念ながら、ヒトは性善説と性悪説で割り切れる程単純ではないようである。
権力、それも暴力装置を背景にした統制者が、より公平で公正なルールセットを開発し、社会に秩序をもたらすのが、最悪とは言われながらもよりましな民主主義による、社会的余剰を進化させることが可能な現実のように思われる。

本来であれば、老荘の説いたような人為的な一切の作為を捨て、自然の流れに身を任せられるような時代が好ましいのかも知れないが現実は厳しい。

魏の恵王のために、料理包の名人の丁さんが、牛を割いていた。手が動くたびに、肩が動くたびに、足が動くたびに、膝が動くたびに、サクサク。丁さんが包丁をシュ、シュとすべるように動かした。それは手の舞い足の踏むところ、肉は骨からはらはらと外れ、落ちた」。
恵王は、「見事な技である」と褒めたたえた。しかし丁さんは、「これは技ではありません。道です」と答えた。
この話をチクセントミハイが、それを「自分の仕事のフロー体験状態である」として紹介している。[2.5]
水は低きに流れ、木は根から空に向かって枝葉を伸ばし、ヒトはその実を求め、道は踏まれて自ずとそこに現れる。これらは、すべていわば進化現象である。[2.6]

ヒトは、自ずからの道で仕事ができれば、まず生きて行け、それによって社会はより豊かになる。それは、ヒトは仕事の成果以上に食べる必要がないからである。
これは、アダムスミスからとされマルクス以来の労働価値説から、生産者余剰と消費者余剰を合計した社会的余剰が生じるからである。

通常、ある時代のライフスタイルは、次の時代にライフスタイルのコンテンツとしてそのレベルで引き継がれ、そして進化する。仕事の効率が上がれば、社会的余剰はさらに増えて行く。
これは技術が新しい価値を生んだとき、”古いメディアは新しいメディアのコンテンツである”とするマクルーハンのメディア論からも、消費者余剰が生まれることが納得できる。

彼は、メディアは、あらゆるヒトの心身の拡張欲求を満たす道具や手段としての技術であり、衣服・自動車は肉体の、テレビを代表とする電子メディアは中枢神経の拡張であるとしている。[2.7]

人々はメディアが発するコンテントにとらわれがちだが、新しいメディアが現実したとき、それが新しい形式、構造、フレーム等の再構成に関するイノベーションであるとすれば、人びとがパラダイムシフトに追従するために、ライフスタイルそのものを文化として継承しつつ連続的に進化するものであるとするメッセージが込められているように思われる。

こうして技術が進化することで生じる社会的余剰もまた、次の時代の資産として蓄積される。ヒトが資源を使い働いて生活し、資源を貯め、それを使ってさらに社会資産を獲得することで、社会をより豊かにする作用を増幅することが実現される。

こうして、ヒトが社会で仕事をすることで、常に新しいメディアが生まれ、それが社会をより豊かにする安定的で動的な発展性向を持っていると思われる。

これは、仕事と社会の本質的な関わりであることを示している。
それゆえ、そこには技術を含めた蓄積した資源の帰属をめぐるいわばゲームとしての、仕事に対する考え方として、受動態構文で語られる”労働”という響きが、色濃く入ってくる危険がある。
また、そこには技術というものの持つ性質や働きすらも関係していることも示している。そして技術を生み出すイノベーション・プロセスについても、そうではあるまいか。


2◇仕事はすべて、ヒトと環境との相互作用である

◇ 仕事は、ヒトと環境が、情報の交換をし、対話をするプロセスである、と考えることができる。

環境は、多くの多様な特徴を備えたデータを持っているが、ヒトがある時ある環境に向き合ったとき、その属性から何らかの注意をそそられ、そこからある意味のあるパターンを受け取る。それにどう反応するかは、その環境の特異なデータが、特異な意味を持った情報となるかどうかによって決まる。なにか意味を持った特異なデータは、ヒトに何らかの特異な反応を生じさせると考えることができる。

 ギブソンという認知心理学者は、このような性質を持った環境のデータを、アフォーダンス(環境情報)と呼んだ。
彼は、「アフォーダンスとは、環境が動物に提供するもの、良いものであれ悪いものであれ、用意したり備えたりするものである」とした。[2.8]

 アフォーダンスをうまく利用した認知心理学者であるノーマンは、 ドアの前に立ったとき、「取っ手が平板な場合、それは押すことをアフォードする。取っ手がリングになっている場合、それは引くことをアフォードする。したがって、部屋に入る側の取っ手がリングなら、出る側の取っ手は平板状にするのがアフォーダンスの理論に基づいた自然な対応付けとなる。」としている。

アレグザンダーの提唱したパタン・ランゲージは、「[座れる階段]は座ることを、[暖炉火]は人が集まることを、「街路を見下ろすバルコニー」はそこにたたずむことをアフォードしている」とし、このような人々が「心地よい」と感じる環境を分析して、253のパターンを挙げた。[2.9]
望ましいコミュニティ全体を一度に設計・建設することはできないが、こうしたパターンに従った一つ一つの行為の積み重ねが、空間の物理的な特徴を定め、空間の意味を創り出し、コミュニティを形成してゆくための設計という作業なのだとしている。

銀座のソニービルを設計した 芦原義信は、 「イタリア人は人々の出会いの場として人為的な広場「ピアッツァ」をつくってきたし、イギリス人は人々の出会わない休息の場としての自然の公園「パーク」をつくってきた。そして日本らしい公共の広場とは?と問いかけていた。

むかし京都の禅寺の庭に向き合った座敷にいつまでも佇んで動かないドイツ人を見かけたことがある。彼は、「座敷の仏像は、15分で飽きてしまう。ただ、この庭園の前からは動きたくなくなる」と語った。
東京オリンピック後につくられる銀座のソニーパークはどのようなメッセージを発してくれる場になるのだろうか?

アフォーダンスは、何も場所や空間だけに備わっている性質ではない。
ウオークマンは音楽を聴くことをアフォードするし、本は読むことや枕にすることをアフォードする。 環境を捉えるということは、環境の潜在的な用途・機能を読みとることであると言い換えてもいいかも知れない。

 ギブソンは、アフォーダンスの原型となった空間の操作的意味を、次の3つに分類している。
1)仮想の空間運動的意味
物体は、つかんだり、押したり、その上を歩けるように見える。
2)仮想の利用または必要に基づく意味
食べ物は食べられるように見える。水は触れれば気持ちよさそうに、木陰は入れば涼しそうに見える。
3)機械的意味
機械、装置、構築物などは、その機能や能力に関わる意味を持って知覚される。たとえば、建築物は中に入って身を守れるように見える。

このようなヒトと環境とが出合い切り結んで(encounter)、その情報で対話し、ヒトが行動してヒトを含む環境がより安全でより快適に変わるプロセスが、本来のヒトの仕事であると考えることができよう。
そのため、そのプロセスをデザイン(設計)し、必要な技術的手段を含めた資源を手に入れ、それを活用し実践することは、まさにイノベーションそのものである。

こうした自然すべての資源空間を生きて進化する動植物のダイナミックな共進化現象は、ダーウィンの突然変異と自然淘汰のメカニズムのみでは説明できない。
今西錦司のエコシステム的進化論が説く、いわば環境資源空間における棲み分け理論で説明したイノベーション論の方が極めて自然である。
それは、今西流に言うとすれば、”イノベーションは起こるべくして起こるもの”であるということであろう。



3◇言葉がヒトと環境を結ぶ最初のデータだった

言葉が生まれモノゴトを知ることができたのか、モノゴトが先でそれを区別するため言葉が生まれたのか、言葉が生まれヒトの社会を作ったのか、ヒトの社会が言葉を造ったのか前後関係は判らない.しかし、言葉がヒトと環境を結ぶ最初の手段としてのデータだったことは肯ける。

聖書では”初めに言葉があった。神が光あれと言われて光が生まれた”としている。イスラームでは、はじめに光が有ったが光は自分が何であるかが判らなかった。光あれという言葉で光は存在ができるようになったという。[1.7][2.10]
ヒトは、光を見て、光というリアル・ファクトに”ひかり”という言葉というファクト・データを与えたと考えることもできる。
いずれにしても、言葉はヒトと社会を含む環境を繋ぐメディアでもある。

蟻やミツバチは、エサや蜜のありかを一連の舞踏動作で伝えることが知られている。
また巣別れして新しい棲みかを発見する過程は、良い方向を見つけた蜂が、仲間を誘うダンスで次第に同じダンスをする仲間を増やし、まさにアフォードして、良い環境の巣へと上手く分家する自然に移動することは、たまに見受けられることではある。

さて、ヒトを取り巻く環境としての物事は、”モノ”と”コト”である。
”コト”は、連続する物事が移り行く、”有る時”の動くモノやコトの動きの出来事でもある。またある作法でヒトとモノが関わり、物事の変化することでもある。
逆にモノも”有る時”の”コト”であるとする見方は、古いイスラームのペルシャや古代インド仏教の時代からあったとされる。[1.7][2.11]
[
またヒトの心の情況も、物事の情況の変化と共に変化する。
意味のあるデータは、意味の数だけ異なった方向性を持った、多次元のデータである。物事や物事の作法を表現するには、まずその存在を知る必要がある。

図1-3
[図1-3]

最近、ノーベル生物学賞の利根川進らの研究では、「ヒトは出来事のエピソードを記憶するとき、エピソードを構成する物事の一つ一つを別の脳細胞に直接記憶させている回路と、それを検索して呼び出す間接回路が別にあり、エピソードを組み立てる機能をしているということが判ってきたと”Cell, 13,july, 2017”に発表した。[2.12]
この発見は、因果関係の理論で証明しているらしい。

――・――・コラムーー・――・――

利根川等の2012年の研究で「エングラム細胞が見つかった」と言われています。
ある神経活動「a」が、脳の何らかの機能「A」の原因となっていることを実証するためには、
●    神経活動aを阻害すると、(ほかの機能には影響を与えずに)機能Aが生じなくなる 
●    (他の神経活動は同じままで)神経活動aを引き起こすと、機能Aが生じる 
ことの両方を示す必要になります。
前者は「loss of function」の証明、後者は「gain of function」の証明と言われます。この両方が示せてはじめて、aがAを引き起こす必要十分条件だといえるようになります。
2012年の研究で明らかになったのは、海馬歯状回の特定の一群の細胞を活動させると部屋の環境と条件づけられているはずの「すくみ行動」が引き起こされる、ということでした。このすくみ行動を「部屋の記憶」と読み替えれば、
●    細胞群が活動  部屋の記憶が呼び起こされる
となります。よって、これは状況依存的恐怖条件づけ課題の記憶についての「gain of function」を証明した研究といえます。
では、loss of functionの証明はどうかというと、この論文内でそれが証明されているかどうかはちょっとわからないのですが、少なくとも他のいくつかの研究において、「海馬の細胞群の活動を止めると記憶が失われる」ことが分かっているようです。
以上の証拠を合わせると、海馬の一群の細胞の活動は、ある種の記憶の想起を因果的に引き起こす、つまり「エングラム細胞」であるといえるわけです。

――・――・コラムーー・――・――
最近、ノーベル生物学賞の利根川進は
井筒俊彦は、イスラームと弘法大師の真言から、「理事無碍」の根源となっている「事実の種根」にも対応していると、ほぼ利根川と似た様なことを、指摘している.[2.11]
営みに時空を超えることができるデータとして、言葉があったこととしても、あまりおかしなことではない様に思われる。








4◇データから意味のある情報へ役に立つ知識へ

イノベーションが起きるには、現状と望ましい未来を知る必要があるが、このイノベーションのキャズムを超えるためには、そのイメージを、プロジェクトのメンバーの共感を伴った共有が必要である。

ただ、個別の環境事象が、個別のヒトの個別の情況のことであり、一般普遍の概念と一線を画す原初データである。
こうした個別事象は、リアル・ファクトとして、そのあるアイテムに対し、属性を切り取ってファクト・データとして記録し表現し伝える必要がある。

一番簡単なファクト・データは、2項関係であるが、この2項を結ぶ関係として3項目が必要となる。[2.11]

このモノゴトの存在形態を記述する原始命題は、サブジェクトと、オブジェクトまたはアトリビュートと、両者の関係を示すプレディクトである。
これは、具体的理解や具体的認識に対し、抽象的理解や抽象的認識とも言える。

これらの事象や事象間の関係性もまた、事象である。
意味のあるデータは、意味の数だけ異なった方向性を持った、多次元のデータである。
言葉は、もっと高度なルールの進化を伴った、無駄が省かれていよう。そして、モノを集めたり、植物を育てたりするときに意味のあるデータは情報となり、無駄が少なくなる。

図8-4
[図8-4]

こうした事象すべてにURLというアドレス名(住所と名前)が付けられるIoTの時代が到来した。

こうした命題を機械可読するデータ構造化への研究が進んでいるが、これはオントロジーのRDFモデルと言われて、アメリカの大統領は、オープンガバメントとしてデータのオープン化を急いでいる。

一方、こうした構造化データでも、データのタイプによっては、個別の環境事象やヒトの情況から多くの属性をそぎ落として行きかねない。

例えば、”良い”、”悪い”は、軽い”、”軽くない”も2値の計数データである。
これらの基準はもし計量値で表現できれば、6倍効果的である(判断の2種の誤りを押さえて必要なサンプル数で)ケースが、JIS9000でも確認できる。
もし、健康に関する個別データとして各種の画像等のバイオマーカであれば、もっと的確に効率的に判断ができる。そして、それらに計数値、計量値、定性的なノミナル値等に、一貫性があれば、なお良いファクト・データとなる。
単にデータ量が多いが情報量が薄いビッグ・データも大切ではあるが、少数でもディープ・データも大切にしたい。

データの属性は多い程よく、いわゆるマルチメディアほど情報量が多くなる。従ってこの読本では、出来るだけテータタイプを限定せず、多次元データもしくは多変量のデータが分析できる連環データ分析を中心に採り挙げて行く。

そもそも、応用統計学の母と言われるナイチンゲールは、トルコとイギリス、フランスの連合軍が、世界中でロシア等と闘い勝利できなかったクリミヤ半島からの戦争の現場での発見から、その有効な学問を切り拓いたと言われている.彼女が発見したのは、「層別する」ことで「役に立つ知識」が得られる」ということだった.

この「層別」ということが、属性とうことである。有る事象の属性に注目して、そのアイテムで、個別事象を分けて眺めるという所に、近代技術の基礎である応用統計学とそれがリードしてきた基礎科学が進化してきたといえる。

彼女が戦場についたとき、野戦病院で無くなる兵士が40%だったが、負傷兵を藁や土の上では無く、ベットに寝かすという処置だけで、5%に激減したと言われる。
ただ、細菌が発見されるのは、2年後のフランスのパスツールに依るもので、死亡の原因が細菌であって、その因果関係を解明したのではなく、役に立つ知識技術、つまりデータ分析技術だった.

モノを作るために、広く役に立つ情報は、知識となり技術となる。物事はモノとデキゴト、作法はアリ方とヤリ方である。
これらの”モノゴト”を作法も含め、「事象」と呼ぶことにしよう。
応用統計学は、実践で意思決定のデザインに貢献するデータ処理技術の学問である。

それは、「図8-4」に示すアリストテレスの実践知(フロネーシス)を働かせる智慧である。つまり個別具体的な事例に直面視野時、如何なる行動を採るかという智慧である。

リアル・ファクトに直面し、ファクト・データをとり、そこから意味のあるデータとして情報を抽出し、その目的に沿って役に立つ知識を得て、実践する。



図8-5
[8-5]

このとき、データは、使い易い知識として集約化され一般化され専門化される。こうして知識は、個別具体的事例から乖離というパラドクスが発生する。つまり、現実の体験的知との連結作用素としての実践知が必要となる。
特に、抽象化と具体化という、ラダー・アップ&ダウンが操作できるデータ分析が重要である。





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